佐嘉神社は、JR佐賀駅の南1.6kmほどの佐賀市松原のに鎮座している神社です。旧社格は別格官幣社です。 佐賀城跡の国道264号線挟んで北側です。
昭和8年(1933年)肥前佐賀藩10代藩主の鍋島直正(閑叟)の霊を松原神社から遷座して創建されました。直正は藩政改革を行い、大隈重信・江藤新平らの人材を育成しました。 昭和23年(1948年)松原神社南殿に祀られていた肥前佐賀藩第11代最後の藩主の鍋島直大の霊を佐嘉神社に合祀しました。直正は、国内初の反射炉、大砲カノン砲、アームストロング砲などを作り、近代日本の幕開けに貢献し、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で官軍として戦い、明治2年(1869年)には版籍奉還を申し出ました。 松原神社は別の神社として運営されていましたが、昭和36年(1961年)に佐嘉神社と運営を一本化しました。
敷地内には佐嘉神社の他に7つの神社があり、「八社詣巡り」をすると大願が叶えるといわれています。 1番社 佐嘉神社・2番社 松根社・3番社 松原神社・4番社 佐嘉荒神社・5番社 松原恵比須社・6番社 松原稲荷神社・7番社 松原河童社・8番社...
Read more佐嘉神社は昭和8年(1933年)に建てられた新しい神社です。
◆御祭神
贈従一位 旧佐嘉藩第十代藩主 鍋島直正命
従一位 旧佐嘉藩第十一代藩主 鍋島直大命
◆御由緒
佐賀36万石の10代藩主鍋島直正公は、 文化11年(1814)江戸桜田藩邸にお生まれになり、 幼名を貞丸、成人して斎正、維新後に直正と改名、閑叟(かんそう)と号しました。 天保元年(1830)2月、若冠17歳で父君斎直公の跡をうけて藩主となりました。その頃の佐賀藩は長崎警備の大任を受持ち、財政は極度に窮乏していました。 このため、直正公は補導役の古賀穀堂の意見をいれ、 徹底した倹約令を施行、自らもその範を示し、一汁一菜を励行すると同時に、一切の衣服を綿服に改めました。 また、遊郭を閉鎖し、歌舞音曲の観覧を禁止するなど、 華美遊惰に流れることを押さえました。 しかし、直正公は単なる堅物の殿さまではありませんでした。 従来あった10数ヶ所の別荘を整理して、風光に富む神野(こうの)に茶屋をつくり、 市中近郷の男女に花見をさせるなど庶民に開放しました。
【明治天皇と直正公】 明治4年、直正公は危篤の病床から、 天皇陛下が未だ種痘を終えていらっしゃらないことを憂い、 1日も早く接種なされることをお願いされたのであります。 明治天皇は岩倉右大臣よりこのことをお聞きになり、 30歳のとき接種されたということです。 ※種痘とは天然痘の予防のために、牛痘を人体に接種すること。 植え疱...
Read more御祭神
贈従一位 旧佐嘉藩第十代藩主 鍋島直正命
従一位 旧佐嘉藩第十一代藩主 鍋島直大命 佐嘉神社
庶民の神
神野の茶屋を庶民に開放
佐賀36万石の10代藩主鍋島直正公は、文化11年(1814)江戸桜田藩邸にお生まれになり、幼名を貞丸、成人して斎正、維新後に直正と改名、閑叟(かんそう)と号しました。 天保元年(1830)2月、若冠17歳で父君斎直公の跡をうけて藩主となりました。 その頃の佐賀藩は長崎警備の大任を受持ち、財政は極度に窮乏していました。このため、直正公は補導役の古賀穀堂の意見をいれ、徹底した倹約令を施行、自らもその範を示し、一汁一菜を励行すると同時に、一切の衣服を綿服に改めました。また、遊郭を閉鎖し、歌舞音曲の観覧を禁止するなど、華美遊惰に流れることを押さえました。しかし、直正公は単なる堅物の殿さまではありませんでした。従来あった10数ヶ所の別荘を整理して、風光に富む神野(こうの)に茶屋をつくり、市中近郷の男女に花見をさせるなど庶民に開放しました。 直正公の詩に 紫藤三面巧囲屋 (紫藤三面巧みに屋を囲み) 新竹千竿斜護門 (新竹千竿斜めに門を護る) 看花好与民偕楽 (花を看るに好し民と偕に楽しむ) 酌酒便唯我独尊 (酒を...
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