Serene and large temple with open spacious area in front of main temple. Although it is at the end of a wide road, there is not that much traffic so it is usually quiet at anytime of day. If you go at 6:30am in the morning you can see the local community meeting to do ラジオ体操 ("Rajio Taisou") or Radio Calisthenics. On Sunday mornings only (at about the same time as the Rajio Taiso) there is usually a small van with fresh fruit and veg just outside the...
Read more山号 無量山 江戸三十三箇所札所、観音札所第十二番札所
・歴史 慶長7年(1602年)に徳川家康公の生母の於大の方が、京都にある伏見城で死去。 遺言により於大の方の遺体が江戸に運ばれ、大塚町の智秀寺という寺で火葬され、位碑は久松俊勝の菩提寺である安楽寺(愛知県蒲郡市)、光岳寺(千葉県野田市)、他それぞれに於大の方の菩提寺が建立される。 そして、寿経寺という寺を現在の傳通院がある場所に移転し堂宇(仏堂のこと)を建てます。安楽寺の住職から於大の方の法名伝通院殿に因み、院号を伝通院となる。
家康公は当初、芝の増上寺に母を埋葬する予定であったが、増上寺第十二世観智国師、慈昌から「増上寺を開山した聖聡上人の師である了譽上人(=聖冏…しょうげい、南北朝時代〜室町時代中期の僧)が庵を開いた故地に新たな寺を建立するように」という助言で伝通院を慶長13年(1608)に竣工、家康公から観智国師門下の学僧で、後に増上寺第十三世となる廓山が初代住職となり、寺領600石を与えられ、多くの仏閣を有し威容を誇りました。また寺の最高位「紫衣」の着用を認め、江戸では増上寺に次ぐ徳川将軍家の次席菩提寺となり、増上寺、寛永寺と並ぶ江戸三霊山となり、数々の徳川将軍家の正室、側室、子息、子女がここに眠っています。
伝通院の威容は、江戸名所図会、無量山境内大絵図、東部小石川絵図にも描かれている。 当時、伝通院は風光明媚な高台に建っており、富士山、江戸湾、江戸川等が眺望できたと書いてあります。
元和9年(1623年)に830石に加増され、関東十八檀林の上席に指定されました。
享保6年(1721年)と享保10年(1725年)にそれぞれ大火で被害に遭っています。
・新選組 幕末、新選組の前身である浪士組が結成され、近藤勇、土方歳三、沖田総司、芹沢鴨、山岡鉄舟、清河八郎を中心に250人が集まりました。
・彰義隊 幕末、江戸城無血開城と同時に上野で自害した少年兵で組織された彰義隊が結成されたのもこの伝通院があった場所と言われています。
・明治維新 明治以降、江戸幕府が無くなると同時に伝通院は衰退して歯止めが出来ない程になってしまいます。そこに同じ浄土宗の寺で長野県の善光寺が分院を建て、少しずつ復興していき、浄土宗の学校で淑徳女学校(現在の淑徳SC中等部・高等部)が創立しました。江戸時代までは武家や高い身分の人間しか伝通院に墓を造れなかったが、明治以降になると一般庶民にも開放され、庶民の墓も造れるようになります。
アクセス 都営三田線、春日駅 東京メトロ丸ノ内線、東京メトロ南北線、後楽園駅それ...
Read moreある時期、お寺の近辺を何度となく通行し、数回は拝観したはずですが、「千姫のお墓があることで有名なお寺である」と思うだけでした。人にもそのように説明していたことがありました。実際千姫のお墓があるわけですから、間違いではなくとも、せめて千姫のお墓「も」あるお寺です程度の知識があってもよかったのではないかと思うばかりです。
正式名は、「無量山傳通院寿経寺」と言います。浄土宗の寺院で、ご本尊は阿弥陀如来です。 元々は、1415年(応永22年)、無量山寿経寺という小さな草庵から発します。それから200年後の1602年、徳川家康の生母「於大の方」の逝去に伴い、寿経寺を菩提寺としたことで、於大の方の法名から「傳通院」と呼ばれるようになったということです。
敵味方が入れ替わり、於大の方は二度の政略結婚をさせられています。一度目の松平広忠との間に生まれたのが、竹千代(徳川家康の幼名)です。於大は離縁されたのですが、竹千代は3歳で母と生き別れ、6歳の時から19歳まで、今川であったり、織田であったり、と人質生活を余儀なくされています。於大の方は、久松俊勝と2度目の結婚。生き別れた病弱な竹千代への想いは強く、衣服やお菓子などをお見舞いに送っていたようです。於大の方の実母(華陽院)もまた政略結婚をしています。今川に身を寄せていた華陽院によって竹千代が育てられていたことだけは幸いだったことでしょう。
家康の母への想いは、如何ばかりであったでしょう。 後に久松家とは親戚関係となっています。 これらの経緯からも充分推測できるように、家康をして実母於大を思う気持ちは余人をもって代え難く、埋葬地を然るべく用意させたのであろうと思われます。
傳通院は、於大の為の寺院であり、そこにまた政略結婚の憂き目にあっていた千姫の安らぎの地にもなっていった寺院でもあることを知ると、武家の女たちの哀しく酷な歴史に思いを馳せざるを得ません。
増上寺に次ぐ、徳川家の菩提所となり、増上寺、寛永寺と並んで、江戸の三霊山と称されたそうです。 境内には、徳川家の女性、子供(男子)が埋葬されています。 家光の二男、亀松が葬られてからは、幕府の加護も...
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