城として完全に無視されてしまい、準備万端整えて待っていたのに敵である後北条氏から素通りされ戦いの対象としてもらえなかった、何だか切ない経過を持つ城なのであります(笑)。 決して地理的に重要では無い、とか城が小さすぎて相手にする価値がない、等の理由からではありません。むしろ城の規模は当時としては大きい方です。
話は室町時代初期に遡ります。室町幕府は関東10ヵ国の統治機関として関東支部「鎌倉府」を置いており、その長官、鎌倉公方の補佐をするのが「関東管領」上杉家でした。その一部は自立し戦国時代には南関東を支配するようになります。扇谷(おうぎがやつ)上杉氏がそれです。有名な太田道灌を重臣とし、勢力を伸ばした時期もありました。
しかし戦国時代になると、伊豆発祥の新興勢力「後北条氏」が登場し全てを変えます。今までの領主は領民から搾り取ることしか頭にありませんでしたが、初めて産業振興・インフラ整備・技術支援等「治民」の概念を北条氏は政治に持ち込んだのです。
支持は圧倒的で周辺の中小勢力は、駆逐されるか傘下に入るかの選択を余儀なくされたのでした。 北条氏としては領国規模が大きい方が、租税を安く出来たり調達コストを下げたり等のスケールメリットが享受できるので、アメーバのように増殖を続けていきます。
特に扇谷上杉家は勢力圏が隣接しているため、真っ先に攻勢にさらされるハメになりました。道灌亡き後の北条氏2代目「氏綱」の時には、ついに扇谷当主「上杉朝興」は居城としていた江戸城を奪い取られ、河越(川越)城に逃走する事態まで起きます。
本来は関東10ヵ国に号令をかける立場である関東管領家の一族が、ただ「邪魔だ」として元は素浪人であった北条家に叩き出された訳で、戦国ですなぁ(笑)。しかし扇谷側としては笑ってもいられず、こんな屈辱はありません。必死の江戸城奪回作戦が立案されます。
いかんせん新本拠地である川越から江戸を攻撃するには、当時の補給兵站事情では距離があり過ぎました。そこで目をつけたのが江戸城の西方約20kmの位置にある深大寺です。ここなら江戸城奪回の旋回軸として丁度いい距離であり、北条氏の再度の武蔵侵攻があっても多摩川を最終防衛線として活用可能です。古刹・深大寺がそばにあって都市インフラが整っていたのも理由の一つでしょう。 さらに扇谷とっておきの勇将、難波田弾正(なんばだ だんじょう)を城に配置した事からも、その「本気」度が分かります。
実際のところ北条側にはイヤな占地で、本拠地の小田原への街道にも面していて江戸城だけではなく相模方面への脅威となり得たのです。また武蔵深部への侵攻の際には背中を襲われる恐れがあり、放置する訳にはいかなくなりました。
ついに氏綱は主力を率いて小田原城を出て、江戸城に陣取ります。難波田弾正はこれを待っていました。なぜなら深大寺城は三方を低湿地に囲まれ包囲しにくい地形の上に、江戸城奪回作戦のために築城された事もあって、あらかじめ大軍を安全に収容出来るように曲輪は大きめにつくられ、大量の軍事物資の集積も可能だったからです。籠城すれば長期化し、川越から来た上杉本軍がその背後を突くことでしょう。
氏綱は江戸城を出て進軍を始め、待ち構えていた弾正たちでしたが、そのうち「ん? アレ、何でこっちに来ないの!?」と城内はパニックになります(笑)。何と氏綱は深大寺城に目もくれず、いきなり長駆、扇谷家新当主「朝定」のいる川越城へと殺到したのです。 当時の戦争は将棋と同じで、いくら戦力が残っていても「王」が取られたらゲーム終了ですからね。
不意を突かれた朝定は、ロクな抵抗もできず川越を捨てて松山城へと逃走せざるを得ませんでした。 氏綱の情報収集能力、決断力と近代軍である北条軍の補給兵站能力、組織力が可能とした大勝利です。 弾正は深大寺城を捨てて川越城救援に駆けつけますが、後の祭りでした。 北条氏にとっての前線は遥か北に押し上げられたので、もはや深大寺城に利用価値は無く、その後放棄されてしまいます。
説明が長くなり過ぎました(笑)。周辺の低湿地は現在は東京都の神代水生植物園として保存整備され、よく地形が残されています。深大寺のお参りがてら、名物の蕎麦を楽しんだ後に気軽に立ち寄って...
Read more東京都下は調布市に有ります「深大寺城跡」(岡城)です。
こちら深大寺城跡は、東京都心部から1,2を争う近さアクセスの良さで、尚且つキレイに遺構が残る山城•岡城の系統です。
世田谷区から多摩川を挟んだ「枡形城跡」(山城で今は山城公園)や「小沢城跡」(山城でジャイアンツ球場の横)等もそうですね。
深大寺城の築城年は不明です。
最初の築城主は狛江氏と考えられていますが定かでは有りません。(狛江氏は調べても出て来ませんが…平安•鎌倉期の辺りに領地地名を名前にし発祥した在地豪族か?分かりませんが)
主な改修者は扇谷上杉氏。
主な在城主は、その扇谷上杉氏の家臣•難波田氏です。
1500年代初頭には 扇谷上杉氏と小田原北条氏が激しくこの地で争いました。扇谷上杉氏は川越城を出てこの深大寺城に陣を敷き、対する小田原北条氏は前出の小沢城(現ジャイアンツ球場横)に陣を敷き、両者は多摩川を挟んで睨み合い小沢原などで衝突したとの事です。
先にも述べましたが土塁や空堀、また一の郭二の郭など遺構がキレイに残っています。(館跡の礎石は復元物)是非にブラリと訪れてみて下さい。
因みに遺構は、今は深大寺植物公園内(水生植物園側)に有ります。 水生植物園と深大寺との間の道に、コインパーキングや有料駐車場は沢山有ります。コインパーキングからは歩いて直ぐです。参考まで。
大河ドラマ「光る君へ」の最終回ラスト…紫式部のセリフ「嵐か来るわ」が、争いの絶えない長い長い武家政権時代を表すとすると…
源氏と平家の争いが嵐の前触れ…、そしてこの小田原北条氏と扇谷上杉氏の争いなどは本格的な嵐(戦国時代)の初...
Read more【山城レベル】入門(お散歩レベル)。
【アクセス】バスで終点「深大寺」で降りる。 京王線調布駅からのバス:本数少ない、駅前飲食店多い。 京王線つつじが丘駅からのバス:本数多い、駅前飲食店少ない。
【遺構・構造】 〇一ノ曲輪(南東) ・土橋(ここに立って両側が空堀。その外側に低い土塁。) ・主郭の虎口(出入口のこと。) ・土塁に囲まれた主郭 ・ここの土塁はもとは薬研堀(やげんぼり:V字形ロート状の掘り方) ・櫓台(主郭の北西隅) ・主郭南東の土塁の向こう側は切崖 〇二ノ曲輪(一ノ曲輪の西側) ・たくさんの石柱(何棟もの陣屋の柱跡) ・南側土塁(オリジナル) ・南西側土塁(公園整備の際の復元) ・テニスクラブから続く坂道は、もとは箱掘(はこぼり:底が平らな掘方、道としても使っていた) 〇三ノ曲輪(二ノ曲輪の西側) ・今は住宅地やテニスコート ・深大寺バス停向かいの坂道が、三ノ曲輪西側を区切っていた空堀と思われる。 ・南へ上っていったT字西側に虎口があったと思われる。
【その他】 ・城南側は崖、城北側は谷。谷の湧水が主郭裏手の湿地(現水生植物園)をつくり、小川となって低地をつくり、多摩川につながっている。つまり、湧水が台地を削り谷となり、その南側が東西に細長い台地(舌状台地)となって、ここに城が築かれている。 ・城の南東北は谷などで攻めにくい。敵は攻めるなら西から。だから西側から三ノ曲輪→二の曲輪→主郭となっている。
【歴史】 築城は扇谷(おうぎがやつ)上杉...
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