正式名:南向山 清源院 長林寺 徳川家康公側室、於万の方様の隠居寺。 元々は鎌倉御家人の安達盛長の一族子孫の長林氏の開基で獅子王山長林寺と言う寺名で前身の寺院として存在した場所です。
於万の方様は40歳になり側室を辞職すると当時は鎌倉郡だった泉区岡津に現存する亀鶴山一心院西林寺の場所に仏教草庵を建て移住しました。
於万の方様は更に後に現在、清源院の院号で呼ばれる元の獅子王山林長寺に移住されました。 現在の寺名である南向山 清源院 長林寺の清源院は於万の方様の法名の院号から頂いて寺名を改名している事が分かります。
この御寺で没し荼毘(だび:火葬する事)に伏されました。 荼毘の地は寺域最高所の墓地奥に、ちゃんと供養墓が築かれ残されています。
於万の方様の生前に尼僧としての仏僧としての名前が法名です。 於万の方様の没後の戒名としてのフルネームは••• 清源院 閑誉 理崇大禅定尼 •••です。 戒名は昔は生前の人格や功績を表して名付けられましたから、於万の方様は••• 清源院 ←清らかて 閑誉 ←長閑(のどか)=穏やかで 理崇 ←凄く理性的な人 大禅定尼←位階 •••と言う御人柄だったみたいですね。 家康公は駿府で今川家の人質に成り、お祖母ちゃんに育てられて母性愛に飢えていた幼少期を過ごした人でしたから、於万の方様みたいに優しそうな女性は家康公にピッタリだったでしょうね〜。 現代でもモテそう。
於万の方の供養墓側面には••• 寛永三丙寅年正月廿(20)日遷化...
Read more2023/01/28 此処は、浄土宗 南向山 清源院 長林寺。清源院の縁起は、徳川家康の側室 清源院尼(俗名を於満の方)が仕えを辞して生家の岡津に閑居していたが、家康の危篤を聞いて駿府に駆けつけた際に阿弥陀如来像を拝領、家康の死後出家し、元和元年(1615年)、当地に清源院を創建したと伝えられる。その縁により、本堂には徳川家の家紋「三葉葵の紋」が付いている。 広い駐車場の隅(道路側)には、何故か小さい社(神社)が有る。 本堂前/脇には多くの石塔/石碑が有る。 ①芭蕉の句碑: 戸塚は昔から俳句が盛んだったらしい。俳句には縁が無いが、芭蕉の句を見るのは戸塚区内だけでこれで3箇所目となり、おかげで俳句に親しみが出てくる。 清源院:「世の人の見付ぬ花や軒の栗」 富塚八幡宮:「鎌倉を生きて出でけん初鰹」 霊水池:「草いろいろおのおの花の手柄かな」 ②心中句碑:まったく不明。 ③庚申塔:角が大きく欠損しているが、かろうじて「元禄九年」とわかる。1696年の建立。寺で庚申塔を見かけることは、多くは無い。 ④手水舎の蛇口:多くは「龍」だが、此処は「魚」型。初めて見る。 ⑤鐘楼堂:きれいな鐘だ。資料の説明では、鐘は安永三年の鋳造となっているが、昭和40年製らしい。元のは戦時中の金属供出で持って行かれたのだろうか。鐘を撞く面には何が彫って有るのか見ると、「南無阿弥陀佛」とある。
鐘楼の有る一角には、いくつかの石塔や石碑が有る。多くはこの寺院の歴代の住職(上人)のための碑らしい。 ⑥石塔:名も知らぬ巨大な円柱の塔が有る。戸塚宿の講中が文政元年(1818年)に建立したもの。当山17世とある。 ⑦石碑:「勁堂上人乃碑」、これも巨大な石版の碑。 「勁堂上人碑銘 正五位子爵高木正善 篆額(てんがく)とある。 明治22年の建立。明治の文は読めないので、書いてある内容はよくわからない。頌徳碑(しょうとくひ)だろうと思う。
因みに、この碑の題字を書いたとされる高木正善(たかぎまさよし)は、江戸時代後期の大名。河内国丹南藩13代(最後)の藩主(知藩事)。官位は従五位下・肥前守。明治維新後は子爵。...
Read more清源院尼は、徳川家康の側室 於満の方といい、隠居して後、家康の危篤の知らせ聞いて、駿府城に駆けつけた際に阿弥陀如来像を拝領されたと伝わっています。家康死後に出家して、この地に清源院を創建したと云われています。境内には松尾芭蕉の句碑や於満の方の火葬供養塔などもあります。現在、本堂をコンクリート造りの建物から、本格的な銅葺き寺院建築様式のものに建て替え中です。今日写真撮ってきました。新しい本堂はとても立派でした。境内にある歴史的な建造物については説明があるといいなあと思いました。どれも消えていて残念ながら読めない状態でした。檀家の...
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