白虎隊は16・17歳の少年たちで編成され、士中、寄合、足軽の各隊がありました。
The Byakkotai Soldiers were several ranked troops consisting of young 16 and 17 year old men.
正面の墓は慶応4年(1868年)8月23日(新暦10月8日)、ここ飯盛山で自刃した士中白虎二番隊19名の墓です。隊士の遺族は、西軍により手を付けることを禁じられていましたが、村人により密かにこの近くの妙国寺に運ばれ仮埋葬され、後にこの地に改葬されました。現在の形に整備されたのは、明治23年(1890年)で、二度にわたり墓域が拡張されています。 右側の墓は領内各地で戦死した31名(士中3名、寄合22名、足軽6名)の墓で明治33年(1900年)に建てられました。 左側の碑は白虎隊所属の有無に関係なく領内をはじめ京都、新潟、栃木などで大人と一緒に戦い戦死した14~17歳の少年武士62名の慰霊碑です。「白虎隊の仲間達」として平成13年(2001年)に建てられました。
The tomb in front was and is the final resting spot of the 19 members of the 2nd Byakkotai Brigade who took their own lives here at Iimoriyama, on October 8th , 1868. Though the forces of the Meiji government forbade people from burying the bodies of these fallen soldiers, local villagers secretly transported their remains to Myokokuji Temple, where they were temporarily buried. They were later reburied at this spot. It has been renewed twice, and currently stands as it was rebuilt in 1890. The tomb on the right as built in 1900, and contains the remains of those who died nearby ( 31 soldiers ; 3 from the upper rank, 22 from the middle rank, and 6 from the lowest rank ) . The tomb on the left was built in memory of the 62 young 14 to 17 year old samurai who fought and died alongside grown men in Kyoto, Niigata, and Tochigi, in territories where there were no Byakkotai units in place. The monument was built in 2001, for the " Comrades of the...
Read more福島県は会津若松市に有ります 「白虎隊十九士の御廟所」です。
白虎隊は言わずと知れた明治維新に伴う戊辰戦争の中の会津戦争にて、会津藩が対新政府軍討伐隊として編成した少年の武士団です。1868年当時少年達は16才~17才だったとの事です。
残念ながら…旧幕府軍•松平容保の会津藩は、新政府軍に圧倒され…一部の白虎隊の少年達は高台下の用水路の隧道(トンネル)を隠密で抜けこの高台に退きました。そして、高台で鶴ヶ城の城下が炎につつまれるのを見て、そして皆で自刃しました。なので、この場所に白虎隊十九士の御廟所が作られました。 (天守が炎上していると勘違いしたと言う説も有る様です。諸説有りです)
ただ…この地で白虎隊が自刃した際、一人だけ一命を取り留めた少年がいました。白虎隊士•飯沼貞吉さんです。貞吉さん…一人生き残った事は恥では有りません。生きてこそです。後の世代に史実を伝えられたのですからね。きっとその役目を運命として任されたのでしょう。
しかしながら若き侍達…さぞや無念だった事でしょう。静かに手を合わせて参りましたよ。 勿論お線香を供えてきました。
また、近く(と言うか隣)には「自刃の地」も史跡として有ります。 皆さんも是非訪...
Read more白虎隊士の墓
びゃっこたいしの墓
福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢
会津藩が組織した16歳から17歳の 武家の男子によって 構成された部隊
会津藩ほど律儀な藩は 無かったと思います
会津より1000km位、西の 旅行者の感想です
藩主・松平容保始め天皇家にも 幕府へも忠誠の誠を捧げた あっぱれな人士達
西郷、大久保等は天皇の 事を「玉」と呼び敵に 「玉」を取られるなという ほど徹底したリアリストで あり冷血漢であった
武器の差も月とスッポン で誠に気の毒な戦いであった
会津藩は規律厳しく少年は 外食、弁当も許されず 少年兵はひもじいまま戦ったと いう
籠城した武士とその息子の 家族は無駄飯を食べまいと 母、妻、女の子は 次々と自殺したという
墓は香華絶えず涙なくして 参られず
少年兵と自害した家族 籠城した人達のご冥福を 心から祈りました
戦勝後の政府の会津に 対す...
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