昆陽神社 〒262-0032 千葉県千葉市花見川区幕張町4丁目803
2024年12月14日。久々に京成幕張駅を訪問しました。 駅そばにあるこの神社が妙に気になりました。 案内板には、青木昆陽が、この地で栽培された甘藷が天明の飢饉に役立ち、昆陽が「芋神さま」として敬われているという由緒書にとても興味を持ちました。
●秋葉神社・昆陽神社 鎮座地:千葉市花見川区幕張町四丁目八〇三番地 交通:京成幕張駅徒歩一分・JR幕張駅徒歩三分 秋葉神社由緒 【祭神】火之迦具土大神(ひのかぐつちのおおかみ) 記紀にも見られるように人間の生命、生活に欠く事のできない「火」の神様。御神徳は火の幸を恵み、悪を鎮め、諸厄諸病を祓い除く。火災をはじめ盗難除・百災消除・延命長寿・火防開運の神として祀られている 【由来】 建立は不祥。通称権現様。古来よりの地名に権現山、権現町と称し、親しまれた名残がある 享保年間に信仰の厚い氏子より土地を寄贈され、現在の地に移る。江戸時代、境内地に昆陽神社を傍に据える 千葉市美浜長作線の計画により一時移転。道路開通後、昆陽神社と共に新社殿を運営 平成十八年十一月、遷座 【例祭日】 四月三日
昆陽神社由緒 【祭神】青木昆陽(あおきこんよう) 江戸時代の蘭学者、甘藷栽培の普及につとめた 昆陽は八代将軍吉宗に仕え、享保の大飢饉(一七三三~三四)の翌年、江戸小石川の薬草園に甘藷を栽培、数ヶ所で試作し、成功したのが馬加(幕張)村だった。その後、幕府により各地に甘藷栽培が広まる。以後、全国の何万人という人々を飢餓から救った 【由来】 青木昆陽没後、天明の飢饉が起きた。甘藷栽培を始めて約四十年後のことで、馬加村ではこの大飢饉にもかかわらず、一人の餓死者も出さなかったといわれている そして、昆陽は「芋神さま」として敬われ、弘化三年(一八四六)秋葉神社境内に祀られた 《道を隔てた千葉市用地に「昆陽先生甘藷試作之地」碑が建つ(大正八年)千葉県指定史跡》 【例祭】 十月十二日〈明和六年(一七六九)十月十二日没に由来する
奉納 幕張商店連合 会長中臺岩男...
Read more八代将軍・徳川吉宗の命により、サツマイモの東日本での栽培に成功した青木昆陽、芋神様を祀る神社だ。
京成幕張の改札を抜けると、もう社殿が見える。普通、社殿の周りには木々植えられたりするものだが、ここは社殿が丸裸だ。道路建設のため移転された神社であり、敷地内を地下道が通るというのも珍しい。
秋葉神社と隣り合っているが、社殿は秋葉神社の方が微妙に大きい。社殿が隣り合っているのに鳥居は別々にあるという不思議な造り。狛犬は秋葉にはあるが、昆陽側には無い。
青木昆陽は小石川、九十九里、幕張の三か所で栽培を試したそうだが、幕張のみで成功したと伝えられている。幕張が選ばれたのは昆陽を将軍に推薦した町奉行、大岡忠相の弥力の給地であったためだ。
実は実際にサツマイモの栽培に成功したのは昆陽ではなく薩摩の人間であったとか、幕張の試験場にはほとんど来ていなかったとか、昆陽の業績を疑問視する記録もあるが、昆陽が著した蕃薯考がサツマイモの普及に繋がり、飢饉時にたくさんの人が救われた。
ちなみに、墓所の瀧泉寺(目黒不動)には甘藷先生之墓。九十九里町には「関東地方甘藷栽培発祥の地...
Read moreかつて、この口コミに、通説に従って青木昆陽のことを書いたのだが、その後調べてみると、彼はこの地で満足な作付の指導などはほぼしていない。なにしろ、享保19年と20年の2回、合計で7日間しか滞在していないのだ。後に当地にやってきた、薩摩出身の浪人が、「そんな粗雑なやり方で、芋はできない」と、きちっと苗床を作る方法から指導してくれたおかげで、やっとまともな収穫が上がるようになったのだ(『郷土千葉の歴史』181ページ、ぎょうせい、昭和59年)。
救荒作物としてのサツマイモの普及に努めた「甘藷先生」は、当地幕張(かつては馬加、マクワリ)を試験栽培地とし、飢饉の際には多数の人命がサツマイモに救われた……として、千葉県の小学生には、かつては郷土史の中で偉人として教えられていた。 「イモ神様」と崇められた無名の薩摩浪人と、幕府が取り立てた青木昆陽をすり替え、後者を祀り上げることによって、享保の大飢饉における、江戸幕府への民衆の不満を押さえ込みたかったようである。 ということで、ガッカリポイン...
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