2025年5月24日に高田屋嘉兵衛一族のお墓参りに訪れました。 ゴローニン事件を解決に導き、文化6年1809年の箱館大火では、私費で街並みの基盤整備事業を行ない、函館の基礎となる街区を敷いた高田屋嘉兵衛でした。ロシアから帰国後、海外渡航の罪が晴れるまで、高田屋嘉兵衛が留め置かれた寺でもあります。弟の高田屋金兵衛は、兄から箱館支店を任されます。兵庫津の本店に帰った高田屋嘉兵衛は、隠居して淡路島の都志で亡くなりました。高田屋嘉兵衛の墓所は、都志にあります。彼が亡くなり、本店が箱館に移り、高田屋金兵衛が跡を継ぎました。弟家族と関わりのある方々が、ここの墓所に眠っています。 戊辰戦争終盤では、新撰組屯所となったこともあり、4名の新撰組隊士の墓所となりました。昭和29年1954年の台風で墓石が壊れたため、現在のように土方歳三と一緒の供養碑が建てられたそうです。 今回、頭を悩ませたのは、河野加賀守政通(かわのかがのかみまさみち)の供養碑です。解説板の記述には、次のように記されています。「伊予(愛媛県)出身で享徳3年1454年に渡島し、基坂の上部に館を築いた武人。政通の子の河野季通(すえみち)は、永正9年1512年にアイヌの蜂起に遭い、館を攻められ陥落した。館の形が四角形だったので、箱館の地名の由来になった。松前藩の亀田奉行が、宝暦3年1753年に碑を立てた。」 永正9年1512年のアイヌ蜂起は、ショヤコウジ兄弟の戦いのことだと推測されます。この話の筋書きは、志苔館主の小林太郎左衛門良景と子の小林彌太郎良定のことではないかと考えました。しかし、基坂の上に位置する館が、宇須岸館だとすると別の話になります。おそらく、康正2年1456年〜長禄元年1457年のコシャマインの戦いで、どちらの和人館も壊滅していますので、江戸時代には、箱館の地名の由来が、混同されて伝聞されたのかもしれません。 河野政通の出自を探るのは、難しいと感じました。室町幕府8代将軍足利義政の頃に渡党となって和人館を築いたことになります。伊予湯築城主(宗家)は、承久の乱で鎌倉幕府についた河野通久の血筋を引く一族です。この頃の松山は、細川氏と大内氏が勢力圏争いを繰り広げ、河野氏の宗家相続争いと絡みあって戦乱が続いていた時代でした。細川氏と大内氏の支配が交替する際に、敗者となって松山を追われた人物だったのかもしれません。 後白河院についた河野通信(みちのぶ:通久の父)は、岩手県北上市の国見山極楽寺に流刑となり、貞応2年1223年に亡くなりました。通信の孫の一遍上人が「ひじり塚」を墓参する「一遍上人絵伝」が有名です。河野通信に臣従した家来の血筋の方々が、陸奥国から蝦夷地に渡ったのかもしれません。 いずれにせよ、推測の域を出ません。渡党の人々の出自が、はっきりする時が来ればと...
Read moreCan't speak about the religious service, but if you want to visit it as a tourist it's not really worthy. Recommended only to Shinsengumi's hard fans who wish to visit the monument to commemorate Hijikata Toshizo and the other Shinsengumi's members died in the...
Read more函館市船見町にある浄土宗のお寺。函館山七福神の毘沙門天が祀られています。 箱館戦争の頃には新選組の屯所が置かれていた縁で境内には土方歳三をはじめ四名の隊士の供養碑が建てられていてその隣に新選組ファンのためのメッセージノートも置かれています。境内には他に高田屋嘉兵衛の一族のお墓や函館空襲の戦没者慰霊碑もあります。 お盆の忙しい時期だったので御朱印を頂くことはできませんでしたが宝物室は見学出来るとのことで見に行きました。2階にある宝物室には様々な文化財が収蔵展示されていて四天王像の1番左側の像が函館山七福神の毘沙門天様です。御賽銭箱も置いてあります。他にも南北朝時代に建てられたという北海道で最古の和人が定住した史跡である貞治の...
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