25mの高さですので、10分程で登れてしまいますが、この地を治めた三浦氏との縁の深い場所であり、「旗立山」、「鐙摺山」、「軍見山」と3つの地名をあります。 まず、「旗立山」の謂れは、石橋山の合戦に敗れた源頼朝公を救うための軍勢が戦いに間に合わず、軍勢を引き返す帰路に、当時は平家側であった畠山重忠の軍勢と小競り合いとなり、後に三浦一族の隆盛を導いた三浦大介義澄がこの山に旗を立てて気勢を上げ軍勢を鼓舞したという伝説から旗立山とも呼ばれています。 次に、「鐙摺山」は、挙兵前の源頼朝が、鐙摺にあった太多和三郎義久(三浦大介義明)の別館を訪れた際、頼朝公がこの山に登る際に、頼朝公の鐙が摺れたことから、頼朝が鐙摺山と名づけたとも伝わっています。また、平家討伐後は、鎌倉を追い出された愛妾、亀の前をこの鐙摺にある大多和義久の屋敷に逃したこともあり、頼朝は度々この鐙摺を訪れたともいいます。なお、頼朝公の最初の妻であった八重姫の父親である伊東祐親公がこの鐙摺山で斬首されたと伝わっており、その伊東祐親公の供養塔もあります。三浦家と源頼朝公の深い繋がりが分かる場所でもあります。 最後は、別名「軍見山」とも呼ばれます。源頼朝公と深い信頼関係を築いていた三浦氏(三浦大介義明・三浦義澄)ですが、最期は宝治合戦で北条氏に滅ぼされてしまいます。その後は、傍流の相模三浦氏による再興されますが、最期には、伊勢新九郎率いる後北条氏に攻めらて滅ぼされてしまいます。 その戦いの中、小坪の住吉城(住吉城址)から退却する三浦道寸がこの山に登って敵を偵察したことに因む地名と伝わっています。 初期、隆盛、最期と三浦氏の歴史に因む3つの名前が、この小さな山にあると思う...
Read more平安末期ー鎌倉時代 三浦義澄の城と伝わる。 鎌倉と三浦氏領を繋ぐ要害としての役割の他、湊の監視他海運に関わる拠点。 現在では小山状の一部が残るのみだが、往時は日影茶屋の裏山とは峰続きであり、そこも含めての鐙摺城郭だった。 明治に道路が切り通され、関東大震災では大きく地形が変わり、遺構としても何も無いに等しい。
ただ、伊東祐親の供養塚がある。
伊東祐親 伊東氏は平治の乱で敗れた頼朝が流された先、伊豆の豪族 監視も兼ねる目的で伊東祐親に預けられた頼朝は、祐親の三女と関係を持ち怒りを買い、北条氏に助けを乞う事となり、後の武家政権樹立の重要なきっかけとなった。
頼朝挙兵後、平家方として参戦していた富士川の戦いで捕らえられた祐親は、三浦義澄に預けられ此処、鐙摺城で過ごす事となる。 三浦義澄の正妻は祐親の長女であり、その縁もあったのであろうか、後に義澄は頼朝に助命嘆願を申し出て許される。
しかし、祐親はそれを良しとせず自ら自害してしまう。
異説と言うか、物語として「曽我物語」では鐙摺城で「...
Read more日本城郭大系の情報はデマですよ。 逗子市教育委員会も葉山町教育委員会も桜山9-4の丘陵一帯が鐙摺城としていますし、実際に国土地理院地図色別標高図で見ても桜山にふんだんに平場や竪堀や裾切された尾根道地形も残っています。 源平盛衰記も旗立山が鐙摺城の北西と記載が有りますが、旗立山が鐙摺城では小浜は北西では無くて北東になってしまうんですね。
実は京浜急行電鉄が桜山の開発権を昭和~平成末期まで持っていたので、学者様達は大企業相手に忖度したか自己保身の為に争いに成りそうなので意図的に記載しなかったかのどちらかしか有りません。 もし、ちゃんと調べてませんでした気が付いてませんでしたなら、日本城郭大系の記者はそのていどの質だったと言う事に成るので、基本読む側は疑ってかかった方が良いでしょう。
昭和の読み物を鵜呑みにし...
Read more