2021年7月12日(月)に那珂湊の街歩きで、華蔵院から湊公園の横を抜けると「天満宮」に着いた。例祭の「みなと八朔まつり」で有名。
天満宮内の石碑には以下のように記されている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「天満宮は、菅原道真公を奉斎した神社で、今から七百余年前の鎌倉時代、海上に種々の奇端が現われ、神託を乞うや、道真公の神霊が、この地に降ったとのことであった。時の領主は、北野山満幅寺泉蔵院を創建して守護させ、神領として二十五貫文の地を寄せられた。 それ以来、住民の信仰が篤く、南北朝時代の頃には、神前で大般若経の転読が催された記録が見える。神仏混淆の時代には、久しく仏像を安置しておいた。 時が移り江戸時代になると、第二代徳川光圀公は、元禄年中に寺社改革(神仏分離)を行ない、家臣東條常言に命じて、菅公の御神像を造らせ、神宝を添えて遷宮の式を行なわせた。また祭礼の式も改め、社職を泉蔵院別当から柏原明神(現在の橿原神宮)の社守鈴木長門に命じた。 爾来、歴代の藩主は、とくに天満宮を尊崇し、祭礼の式は幾度か改められ、数百年を経た現在も伝承されている。 昭和五十八年五月 天満宮宮司 井上 義 撰文 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「那珂湊天満宮御祭禮を嗜む」というホームページにはさらに詳しく以下のように紹介されている。
今から遡ること 700 年以上前、鎌倉時代に、和田町に金兵衛という漁師がいました。ある夜、海岸にて岩の上に光るものを見つけると、これが観世音像でありましたが、梅鉢の紋があったので湊の鎮守様である橿原明神の御神託を受けると、天神様であるとされました。これを祀ったのが、那珂湊天満宮の始まりです。(御神体が最初にお腰掛になった海岸の岩であるとする岩が今でも那珂湊にあり、「旧お腰掛」として祭礼の御幸の途中で御神輿がお腰掛けになります。)詳細な創建年は不明ですが、岩手県宮古市の長根寺旧蔵に現存する、文和5年(1356 年)と記された「大般若経」の奥書に「執筆 常州吉田郡那珂湊天神別当坊住侶」の文字があります。ここには、「奉寄進 奥州閉伊郡於長根寺之常住」ともあり、当時(南北朝時代)すでに那珂湊天満宮は実在し、那珂湊は東北と交流していたことがわかります。 その後約 400 年が経過した今から 300 年以上前の元禄年間に、水戸藩第2代藩主であった徳川光圀公により、那珂湊天満宮は正式に湊の鎮守様とされ、橿原神宮と共に湊の二大鎮守として今に至ります。この時、光圀公により新たな御神体が造られ、神宝を添えた遷宮の式が行われ、現在の境内にある御中座の位置に社殿が新造されました。(この御中座は今でも神域とされ、祭礼により御神輿が御出社し、御神幸となる前に一旦奉安され、御祈祷が行われます。) 那珂湊天満宮は民衆の信仰が篤く、歴代藩主の尊崇を特に集めました。那珂湊は江戸時代頃に「水戸湊」と言われ、東北地方から江戸への東回り航路の要所でもあったことから、往時は水戸城下をも凌ぐ活況にあふれました。豪商や大網元が多数出現し、西の大阪・東の那珂湊とさえ言われるほどでした(昭和 22 年の大火によりその名残りはほぼ消滅してしまいました。)。当時は那珂湊天満宮の近くに「夤賓閣(いひんかく)」という水戸藩の迎賓館があったため(現在は湊公園)、藩内外の要人が多数訪れたことでしょう。その際、那珂湊天満宮前の馬場では全員頭を下げ、最敬礼にて通過したそうですが、乗り打ち(御神前を馬や籠に乗ったまま通過すること)を改めるため、享保年間に当時の水戸藩主により境内の参道が90 度曲げられ、新たに今の位置に社殿を新造したということです。 なお、拝殿は昭和 47...
Read more御祭神は菅原道真公。創建は,今から700余年前の鎌倉時代に金兵衛という漁師が,海岸の岩の上に観世音像を見つけ,時の領主が北野山満福寺泉蔵院を創建されたのが始まりであり,元禄年間に光圀公の神仏分離制政策があり,菅原道真公の御神像を造らせ神宝を添えて遷官の式を行い,現在の御中座の位置に社殿を作ったそうで,享保年間に現在の位置に新築されました。例祭である那珂湊天満宮御祭禮は,八朔祭りと呼ばれ,ひたちなか市随一のお祭りです。 見事な大鳥居があって,広々とした境内があって,(なんと)御中座まである立派な神社であり,橿原神宮と共に...
Read moreVery cool and large shrine. Well kept. Many smaller...
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