静岡県は伊東市に鎮座します「音無神社」です。穴の開いた柄杓を御供えすると、安産祈願になるとされている神社です。
またこの神社は 流罪になって直ぐの頃の武衛•源頼朝公と在地豪族•伊東氏の姫である八重姫に関わりの有る場所でも有ります。
ご存知の通り「平治の乱」で平清盛に敗れた源氏、その源氏の御曹司だった頼朝は捕らえられます。しかし平清盛の継母(義理の母)である池禅尼が頼朝の助命嘆願をしたため、平清盛は温情で命までは取らずに流罪としました。 その流罪の地が、この神社の有る伊東市に隣接する現•伊豆の国市でした。そこを本貫とする後に鎌倉幕府執権となる北条氏の預かりとなりました。
しかしながら流罪とは言え…頼朝はかなり自由に暮らしていたとされます。都から来た源氏の御曹司は都育ちのそこはかとない上品さや、洗練さを持ち合わせていたらしく…この流罪地ではモテた様です。
北条氏の姫で後に頼朝の正室となる北条政子、その北条政子と恋仲になる前、最初に恋仲になったのが先に書きました伊東氏の姫である八重姫でした。
この音無神社はその時代には無く「音無の森」でした。頼朝は川を挟んだ日暮神社の辺りの「日暮の森」で日が暮れるまで八重姫を待ち、そしてこの「音無の森」で密会したとされます。伊東氏は勿論流罪人と姫が付き合う事など認める筈も有りません。さぞや刺激的な叶わぬ恋だったのでしょう。
そして頼朝と八重姫の間には千鶴丸という子供が生まれました。しかしながら千鶴丸は直ぐに八重姫の父•伊東裕親によって殺されてしまい、頼朝も伊東裕親から命を狙われる事となりました。(ただ頼朝は成敗の情報をいち早く察知して、足湯権現に逃げて事なきを得ています) 結局、頼朝と八重姫の恋は実る事無く終わり、北条政子と結婚しました。
と言った様なエピソードが、この神社の有る地には残ります。因みに音無神社の創建年は不明との事です。
神社には天然記念物の大樹である、タブの木とシイの木が御神木として有ります。 タブの木は樹齢1000年とされます。またタブの木は二本並んで立っており、一本がもう一本を後ろから抱き抱える様に立っています。その姿は頼朝が八重姫を抱いている仲睦まじい姿の様だとされています。(写真10枚目)
更に向い側に有るシイの木の大樹には大きなコブが有り、頼朝の子を身ごもった八重姫の姿の様だとされています。(写真12~17枚目)
仲睦まじく音無の森で実らぬ禁断の恋を育んだ、二人の姿を想像しながらお参りしました。 非常に感慨深かったですよ。
是非にブラリと訪れてみましょう。 運が良ければ自分の様に、神社を管理している...
Read moreIn Ito city we have the festival called Siri-tsumi Matsuri; it's for a knd of the dedication for the japanese God(Sintoism) This festival is so excited coz of that style for the victory and loose. Look and...
Read more伊東の中央を流れる音無川(松川)の東岸に鎮座する神社です。地元の子供達の遊び場のようで、こんな神社が近くにあると良いな〜と思わず羨ましくなりました。 こんな静かで穏やかな神社ではありますが、悲恋の舞台であったそうです。 平治の乱後、伊豆に流された源頼朝は、一時、伊東の北の小御所で暮らしていたという説があり、また、その時に出逢った伊東祐親の娘八重姫(三番目の姫)と愛し合ったという言い伝えがあります。 そして、愛し合う二人が密かに会っていた場所(おとなしの森)が今の音無神社と伝わっております。 また、松川の対岸(西岸)の「ひぐらしの森」は、源頼朝が八重姫に会うため日暮れを待った場所と云われており、こちらには「日暮八幡神社」が鎮座しています。 二人の間には、千鶴丸という男子が生まれますが、時の権力者である平清盛から頼朝の監視を命じられていた父親の伊東祐親の怒りは凄まじく、伊東祐親の命で千鶴丸は松川の上流に沈められて殺され、二人の仲も引き裂かれます。千鶴丸の亡骸はこの松川から伊豆の海を漂った後に富戸の岸辺に漂着します。千鶴丸の亡骸は富戸ので丁重に葬られることとなります。また、漂い付いた亡骸を丁重に弔った一族に源頼朝が礼をしたとともに苗字を与えたという逸話も残っています。 近くの伊豆山には、源頼朝と北条政子の逢引で有名な伊豆山神社がありますが、もう一つのカップルも忘れな...
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