■神戸海軍操連所跡碑 #20210113 #20210207 2っ隣接して碑がある。震災で暫くして移設が出来き落ち着いた。石柱型は昭和29年(1954)2月神戸市とある。🔱錨型と冊開型の碑は昭和43年(1968)10月に建立とある、兵庫県政百年を記念し県が建立。
🔲地図を載せた、写真の最後参照されたい。
■年表(主に海舟を抜粋)の後に続ける 1855年9月 網屋吉兵衛(あみやきちべえい)、私財を投じ神戸村に船蓼場(ふなたでば)完成 1858年6月 日米修好通商条約 調印 1859年(安政6)11月、海舟36歳、アメリカ派遣の命を受ける。 1860年(安政7)1月13日、品川から咸臨丸艦長としてサンフランシスコへ出航。 1860年3月 直弼44歳 死去 1860年5月 海舟江戸帰府 1860年6月24日、天守番頭過人・蕃書調所頭取助になり録高400石取りとなる。 1861年(文久元年)9月5日、天守番頭格・講武所砲術師範役に異動。 1862年(文久2)7月4日、二の丸留守居格軍艦操練所頭取に異動。閏8月17日、軍艦奉行並に異動。役高1,000石。録高400石は変わらず。 1863年 網屋吉兵衛が海舟の仲介で家茂に謁見 1863年9月 海舟神戸私邸兼私塾海軍塾完成 1864(文久3)2月5日、摂海警衛及び神戸操練所運営を委任さる。武家官位として従五位下に叙され安房守(あわのかみ)に任官。 1864年2月 神戸海軍操練所完成 同年5月操練所開講 翌年3月閉講 期間10ヵ月 1864年11月10日軍艦奉行を罷免。 1866年8月 家茂21歳 死去 1868年1月17日、海軍奉行並に異動。役高5,000石、列座は陸軍奉行並の上。戊辰戦争始まる。 1月23日、陸軍総裁に異動。列座は若年寄の次座。 2月25日、陸軍総裁を免じ、軍事取扱に異動。 3月13日・14日、薩摩藩江戸藩邸にて西郷隆盛と会見。同日、江戸城無血開城。
■年表に書けなかった激動の慶応3年(1867)だ。長州征伐や竜馬暗殺等血生臭さい。神戸では幕府が網屋吉兵衛の船蓼場と海舟神戸私邸を接収していた。閉所させた海軍操練所と船蓼場を含め併せて此処に神戸港開港工事を急いだ、同時に条約に急かされる様に外国人居留地の区画整備もされる。翌年慶応4年(1868)1 月神戸港開港。その同月27日戊辰戦争が始まる。
●操練所10ヵ月、竜馬31歳、嗚呼何と短い、しかし存在意義は大きい。短いが故に尊く忘れ難く輝く。此の錨型碑は大きい。場所は狭い。立ち止まると時たま歩道通行の妨げになる。ただビル塀が僅かながら史跡に譲るように割かれている配慮が分かる。震災復興全体の中での善処された成果とみたい。位置的には網屋吉兵衛の碑も此処が善く他では難しい。
■神戸海軍操練所跡由来【碑文は以下の通り】 万延元年(1860年)一月、幕府は遣米修好使節団を公式に派遣した。勝海舟は、咸臨丸(300トン)の艦長として、万里の波浪とたたかいなが ら一行の護衛と海洋技術習得の大任を果したのである。これ、日本人による最初の太平洋横断であり、わが航海史上、特筆大書すべき壮挙であった。 文久三年(1863年)四月攘夷の世論ようやく急を告げ、徳川家茂は摂海防 備のため阪神海岸を巡視した。当時海舟は軍艦奉行並の職務にあって、これに随 行し、神戸港が天然の良港であり国防の要港であることを力説した。かくてここ小野浜の地に海軍操練所の創設をみたのである。 この神戸海軍操練所は兵学校、機関学校、海軍工廠を総合した観があり大規模な組織であった。勝はここに天下の人材を集め日本海軍の礎を築き、海外発展の基地をつくろうとした。その高風を仰ぎ、来り学ぶ俊英二百の多きを...
Read more▼海軍操練所と聞くと、「えっ、坂本龍馬でしょ!」と知っている人も多い、有名な場所が、ここ神戸の湊と元町の繁華街の中間あたりにあります。(写真の私の後ろに見えるのがホテル大倉、前の通りを山側(六甲山)へ行ったところが元町ですね。) ▼「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候…すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」とユーモアのある手紙を自分の姉に送った坂本龍馬、この操練所設立の運営資金の工面に東奔西走します。 ▼手紙にあるように、構想は当時の幕府の高官である勝海舟。海舟は第14代将軍・徳川家茂を順道丸という軍艦に乗せ、海軍の必要を説き、この神戸海軍操練所開所の許可を取りつけます。 ▼ところが幕府から拠出されたお金だけでは操練所の運営は賄いきれず、龍馬が福井藩の松平春嶽から千両もの借り入れを取り付けることで開所することができたのです。 ▼先程の「エヘン、エヘン」手紙は、この工面ができた直後に書かれたらしいですが、龍馬というのは、一介の浪人でありながら、本当に周旋能力にたけた人ですね。 ▼勝海舟が所長となり、幕府の軍艦・咸臨丸の操船等を目的に開所した海軍操練所ですが、勝海舟も面白い人で、小さな漁村であったこの地元で、世話になった人たちに、「幕府は外圧に負けて、いずれ神戸はこの辺りを開港することになる。今のうち土地を買っておけ」と、とても幕府の要人とは思えない発言をしていたようですよ。実際土地を買った人は後、大儲け(笑)。 ▼更には幕府の要人のくせに、討幕派の志士も多く集めていました。まあ、坂本龍馬への信の置き方を見ても分かりますが。 ▼京都で「禁門の変」が勃発した際、この討幕派の志士も多くいることを幕府が問題視し操練所は閉鎖。勝海舟は罷免され、龍馬らは薩摩藩に庇護されます。 ▼そして龍馬は、この操練所の経験を活かし、薩摩藩・五代友厚らの出資を受けて、長崎に亀山社中を作るのです。これが、かの有名な海援隊に発展することは皆さんご存じの通りです。 ▼でっかい夢の跡なのですね!幕末の勝海舟・坂本龍馬らの。道理で神戸は明るい...
Read moreさぞかしここの生徒たちは志高く日々の訓練や座学に取り組んでたんやろな
この石碑をぼんやりと眺めながら時代はもちろん違えど小職も船員学校に行ってた頃を思い出してその志の違いに情けなくなりましたー
おそらく教程の半分くらいは当時も現在も同じような内容の勉強をしてたと思いますが志とヤル気と根性がぜんぜん違う
小職は毎日「早く終われよ~💦」と授業そっちのけでそんなことばっかり考えてました
大先輩方はすごいな!
学ぶことが楽しいって境地に...
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