I think I was a little too early (got there before 10am), and it didn't help that it was a wet, cold and dreary day. I will admit that I didn't explore the temple itself because I had already bought stuff from the flea market, but despite the 3 star rating, I think this tiny little place will be worth a visit on a fine day. :-)
For one thing, most of the stuff are very non-commercial, unlike what you would tend to find in the larger flea markets. The people are also very sweet, gentle and kind - my guess is it's because it's a place off the beaten track.
The theme of this little market is "hand made" or home-made, and you can clearly see that the folks obviously find much joy and put much live in their products.
I bought a little pine bonsai grown in a bamboo section for just 1000 yen. There was actually a couple of lovely mini rock gardens that cost a little more but I thought the pine "tree" would hold more meaning for the people I was buying it for.
I would have loved to be able to tuck into some piping hot oden but like I said, it was dreary and I was too early. I think 11am would have been a better time to visit. Still, someone had set up 2 braziers and small wooden benches so people could keep warm despite the cold.
The flea market is held every first Sunday of the month. If you're tired of the madding crowd around Kyoto station, Gion and major flea markets at Toji and Kitano-Tenmangu shrine, you may want to check out this little place for a refreshing...
Read more随心院(ずいしんいん、隨心院)は京都市山科区小野にある真言宗善通寺派大本山の寺院。小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)僧正が開山。本尊は如意輪観世音菩薩。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は、小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。小野小町と少将の淡い恋物語を綴った。
随心院は、そもそもは仁海(954年 - 1046年)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)の塔頭であった。
仁海は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から小野氏邸宅の隣を寺地として下賜され、正暦2年(991年)に建立した寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、そこでは牛になったのは仁海の母ではなく父とされている。
第5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。続く6世顕厳の時には順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。東寺長者や東大寺別当を務めた7世親厳(1151年 - 1236年)の時、寛喜元年(1229年)に後堀河天皇の宣旨(せんじ)により門跡寺院(皇族や摂家出身者が住持として入寺する寺院)となった。その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺している。
その後多くの伽藍が建造され、山城国、播磨国、紀伊国などに多くの寺領を有したが、承久の乱・応仁の乱によりほとんど焼失した。『隨心院史略』によれば、応仁の乱後は寺地九条唐橋や相国寺近辺などへたびたび移転している。その後慶長4年(1599年)、24世増孝(九条家出身)の時、曼陀羅寺の故地に本堂が再興されている。
江戸時代中期の門跡であった堯厳(1717年 -...
Read more小野小町ゆかりで有名な寺院ですが、そもそもは一条天皇の勅願寺であり、空海の法灯の流れをくむ仁海僧正を開基とします。雨乞いを得意とされ、勅命により請雨祈願し9回成功させたことから、雨僧正ともよばれました。火災による荒廃を経て復興、江戸時代には二条九条両摂家から門跡を迎える名刹でした。梅の盛りの頃、梅枝をかざす少女たちによる「はねず踊り」はねずは薄紅色の意ですが、この小野の地のみに残る古語です。これは大正時代に一度途絶えたものを、地元の古老の記憶を辿り復元した踊りです。深草少将との結ばれぬ恋の話ですが、結末は語らず、歌詞はコミカルに明るく変えてあります。小町はかやの実で少将の通った日数を数えていたといわれ、そのかやの実により生えたと伝わる、かやの大木が昔は周辺に多くあり、今でも数少なくなりながら、何本か残っています。‥といいながら、実は深草少将は架空の人物で、室町時代に世阿弥が創作したといわれています。すると、小野小町は実在?となりますが、諸説ある中、尊卑分脈(高貴な家柄の代々の記録本)には小野篁の娘とも孫とも、(彼は嵯峨天皇ほか数代の天皇に重用された学者ですが、遣唐副使を拒否して左遷された面白い人です。)彼女の身内を名乗る女性の和歌が数首、古今集などに残っている他、公式記録は全くありません。また、秋田の生まれともいわれたりしますが、晩年住んだと伝わる山科のここら辺りは「小野氏」という貴族の勢力地でした。京大の有名な学者先生によると、どうやら仁明天皇の更衣だった一人のようです。~町、というのは当時、天皇の後宮に入ったあまり身分の高くない妃(更衣)に使われる呼称で、大部屋を几帳などで区切って住む、失礼ながら、いわば大部屋女優みたいな生活だったため、~町、と呼ばれる風習でした。(皇后や女御は当然個室です)例えば、文徳天皇第一皇子惟喬親王の母・紀静子は三条町、と呼ばれていました。また当時、姉と共に入内した場合、妹の方は小町、と呼ばれたとも。となると、フォーマルな生活をした一女官ということになりますが、絶世の美人という伝承から、全国にお墓があり、面白おかしく尾ひれはひれ様々な色恋の説話が後世についたのが実際のようです。境内には文塚や化粧井戸も伝わりますが、ちなみに、よくある十二単の絵姿ではなく、彼女の時代は実際にはまだ、奈良時代のように髪を結い上げ簪をさし、ひれを肩にかける、スカート式の天女風の衣裳でした。格式高い勅願寺でありながら、どこか女性にまつわる華や...
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