奈良の市街地の街中やすらぎの道沿い三条通ほど近くにひっそりと立つこじんまりとした神社です。 神武天皇の皇后”媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)”を主祭神とする神社です。
神社は593年推古天皇の時代の創建です。神武天皇は奈良の外の日向から来られたので大和や奈良のの守り神として建てられたかもしれません。春日大社が建てられる150年以上前のことです。この神社の三枝祭(さえくさのまつり)は少なくとも文武天皇の時代の701年には国家祭祀として大宝令で指定されていました。
皇后を主祭神とする神社はとても珍しいです。その理由は”媛蹈鞴五十鈴媛”が神様から生まれた人間と古事記・日本書紀に記述され重要視されているいるからと思われます。社殿は三殿が連なっており、主祭神の神武天皇皇后とその御両親が両脇に祀られています。母親は、玉櫛姫命、別名三島溝樴姫、勢夜陀多良比売、活玉依毘売、父親は記述の違いがありますが、大物主神、事代主神、大三輪神、狭井大神、八代目少名彦 八重波津身などとされています。
古事記での記述は次のようになっています。 「然更求爲大后之美人時、大久米命曰「此間有媛女、是謂神御子。其所以謂神御子者、三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。此二字以音。下效此。爾其美人驚而、立走伊須須岐伎此五字以音、乃將來其矢、置於床邊、忽成麗壯夫、卽娶其美人生子、名謂富登多多良伊須須岐比賣命、亦名謂比賣多多良伊須氣余理比賣。是者惡其富登云事、後改名者也。故、是以謂神御子也。」 於是七媛女、遊行於高佐士野佐士二字以音、伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以歌白於天皇曰、 夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟 爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前。乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、 加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟 爾大久米命、以天皇之命、詔其伊須氣余理比賣之時、見其大久米命黥利目而、思奇歌曰、 阿米都都 知杼理麻斯登登 那杼佐祁流斗米 爾大久米命、答歌曰、 袁登賣爾 多陀爾阿波牟登 和加佐祁流斗米 故、其孃子、白之「仕奉也。」於是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上。天皇幸行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。其河謂佐韋河由者、於其河邊山由理草多在。故、取其山由理草之名、號佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。後、其伊須氣余理比賣、參入宮內之時、天皇御歌曰、 阿斯波良能 志祁志岐袁夜邇 須賀多多美 伊夜佐夜斯岐弖 和賀布多理泥斯」
率川神社は現在は大神神社の摂社となっています。媛蹈鞴五十鈴媛が現在の狭井川のあたりに住んでいました。狭井川にはヤマユリがたくさん咲いていたそうです。ヤマユリのもとの名を”さい”と古事記に書かれています。
現在でも6月17日の三枝祭(さえくさのまつり)では、酒樽にササユリを敷き詰める...
Read more593年推古天皇即位 早々 大三輪君白堤(おおみわのきみしらつつみ)に命じ奉斎 「苦しい時の神頼み」だったのでしょうか 蘇我馬子の絶大な権力の前で 敏達 用明 崇峻天皇の治世を 又 崇峻天皇の暗殺を間近に見 馬子は敵対ではないものの天皇の地位を揺さぶる存在 今 新たに皇室と大和(三輪氏)の結び付きを噛み締め 自身が初の女帝となった事から 初代天皇皇后 媛蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)を祀ったのではないでしょうか🤔🤔
開花天皇の宮跡とも伝承され 奈良時代に入り元正天皇により御父神 狭井大神=大物主大神 御母神玉櫛姫命 二座が加えられ 子守神として信仰されるようになりましたが 平安時代末期 平清盛の命により平氏政権に反抗的な東大寺 興福寺などの寺社勢力の討伐の為 1180年平重衡(たいらのしげひら:清盛の五男)らの南都焼討により社殿が焼失 1190年興福寺により再建 その支配下となり 中世は春日若宮の管理の下「春日三枝神社」とも称し 1877年(明治10)大神神社 摂社 率川坐大神御子神社(正式名)となり現在に至ります 現在の御本殿は江戸時代初期の建築とされます
三枝祭りは 701年の大宝令に国家の祭祀として記載されており古くからの歴史があります 三輪山から流れる狭井川の畔には笹百合が咲き乱れ媛蹈鞴五十鈴姫の古里であり神武天皇に見初められた地でもあり 往時に思いを馳せ 盛大に行われているようです
本日の散策の一番...
Read more奈良市で最も古い神社で、初代神武天皇皇后の媛蹈韛五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)をご祭神としてお祀りしており、本殿左側に父神の狭井大神(さいのおおかみ)、右側に母神の玉櫛姫命(たまくしひめのみこと)をお祀りし、中央にお子様である媛蹈韛五十鈴姫命を両親がよりそうようにお守りになられる姿で古くより子守り神として知られています。 神武東征目的地であった磯城邑を治めていた弟磯城(磯城県主家)と外戚(がいせき)を結び、事代主神の大女(えむすめ 古事記 表記名:大物主の娘)媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと 伊須気余理比売)を皇后としました。 ※ 媛蹈鞴五十鈴媛命...
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