釈迦三尊を本尊とする単立寺院である。聖徳太子の創建で、百済の僧観勒(かんろく)が推古天皇10年(602年)に来日し、暦法・天文学・地理学・方術などを伝来し、飛鳥寺にも住し僧正に任ぜられた。推古天皇の帰依により厚遇を賜わり、寺伝(『邦福寺梵鐘銘文』)によると、推古天皇が阿弥陀、観音、勢至の三体の菩薩像を安置された。その為、別念仏寺と称されることもあったと記述されているそうだ。元和元年(1615年)の大阪夏の陣では、徳川方に加勢した為に真田幸村軍によって、全山消失させられている。焼失後74年経った1689年に法源和尚(黄檗宗・・・臨済宗・曹洞宗と並ぶ禅宗の僧)により再興せられた。
昭和45年(1970)統国寺と改称して、釈迦を本尊とし、仏殿・楼門など諸堂全てが中国風に造られた。黄檗宗万福寺の末寺で、以前は和気山邦福寺と称していた。宝永6年に再興されたそののちしばらく、諸国を回っている修行僧を雲水と呼ぶのだが、彼ら他立ち寄る場として機能していた。雲水寺或いは雲水庵と呼ばれることも多かったらしい。座敷からの眺めがよく、境内で出される普茶料理も名物であり、来観者が多かった。浪花百景ににも描かれている。遠くに四天王寺の五重塔が見えているのは、眺望の良さの表現と考えている。小高い場所に座敷があり、普茶料理を出していたのであろうか?
現在、墓地に広瀬旭荘(1807年~1863年・江戸時代後期の儒学者・漢詩人、藤井藍田(1816年~1865年・幕末の儒者・尊王攘夷運動家・漢詩人)、間長涯(1756年~1816年・大阪在住の町人天文学者)、河竹能進(1820年~1868年・幕末・明治初期の歌舞伎脚本や狂言作家)など、江戸時代の文化人のものがある。しかし、墓地では発見できなかったのは残念で、次回訪問の楽しみだ。茶道煎茶道で有名な田中花月庵が奉祀した急須塚も祭祀されている。 昭和44年には在日本朝鮮仏教徒協会の傘下に入り、「統国寺」と命名されて再興された。仏教寺院の宗派は、元が仏教で教えが大きくズレない限...
Read more天王寺駅から徒歩7分、少し道に迷うと15分程。創建年不詳も聖徳太子の開創と伝わる古刹です。
かっては"深妙院念仏寺”と呼ばれた法相宗のお寺、大阪夏の陣(1615)で伽藍の多くが焼失、だが元禄6年(1703)法源和尚によって”大雄殿"が再興、名前も現在の統国寺になったとある。
大雄殿(本殿)に釈迦三尊像が祀られ、弥勒庵、統国寺会館等が見えます。境内で目立つのが、お釈迦様を祀る"十三重の塔”そして”済州島4,3の慰霊碑"日本にも多くの人が来たと伝わる。聖観世音菩薩像、平和祈願の無縁仏像が見えます。
近隣寺院と違い美しい池や庭園、苔むす参道はありません。が、建ってますよ! "ベルリンの壁” 東西を統一して平和になったドイツを知ってるでしょ。
実はこの寺院の信者は在日韓国人が多いらしい。その為に南北の統一を願い建てられたとか…なる程、お寺の名前までも平...
Read more1970年代に黄檗宗邦福寺が総連系の組織に乗っ取られて朝鮮寺になったもの。 ベルリンの壁があるのはドイツの東西統一に朝鮮の南北統一の夢を重ねたもの。統国寺という寺名もそこから来るものだろう。 その他のオブジェも非常に強い政治性を感じるものが多いが、気になった人は能動的に調べるようにしよう。良くも悪くも色々考えさせられる。 元々は由緒のある寺なので、広瀬旭荘ほか数名の江戸期の文人の墓があるはずなのだが、墓所があることを示す石碑があるのみで、墓そのものは一切見当たらない。寺町界隈の他の寺院ではこういう現象はまずあり得無いので、朝鮮系の新しい墓と入れ替えに処分されたのではと強い...
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