北側からアクセスします。(南からは無理) 京阪大津市役所前駅(2018.3.17"別所" より駅名変更)からの場合, 市役所, 消防署, 駐車場 ... の順に敷地の端まで北へ200m進む→皇陵巡拝会の石標あり→左折し山側(西)へ150m進む→南へ左折→到着... (なのですが, どうせ人気ヒトケのない所まで来たのですから, 先にもっと人気のない "新羅善神堂" も見られることをお勧めします。三井寺の関連施設でなんと国宝なんですよ。ブラブラ歩いて南の鳥居を出れば天皇陵の前!😃) 弘文天皇コト大友皇子(648-72)は, 飛鳥時代の第39代天皇(在位:672年1-8月) ..とされる。父である天智天皇(38代)の後継者として統治したことは事実とされますが, 半年で叔父・大海人皇子(=天武天皇(第40代))との壬申の乱に敗れ自害(とされるが諸説あり)。 即位儀礼の有無に議論があり, 一般的・歴史的には大友皇子として語られる場合がほとんどだと思います。 1870(明治3)年, 諡号を贈られ天皇として認められたと云います(がその後も議論あり)。 考古学名は「園城寺亀丘古墳」。 (...なので明治になってから作られた, 訳ではないと思います. ...天皇陵として整備されたのが, という意味であれば, どこの天皇陵も似たり寄ったりだと思いますけどね) (...にしても とにかく分かりにくい。mapで位置は市役所の西側だと分かるのだがどこから入るか分からない。 なぜこの様な状況になっているかという経緯についても色々な歴史がありそうで,...
Read more親友が大津市役所に用事があるというので、即座に弘文天皇の御陵があることを思い出し、用事に付き合うことにして、久しぶりに訪れることができました。実は山科に住んでいて、天智天皇山階御陵には近いのですが、大津市役所には行く機会があまりないので、訪れることができてとても良かった。今回行って初めて気づいたが、御陵の脇に大きな鳥居があり、道なりに進むと国宝・新羅善神堂があり、その脇道をさらに進むと、源頼義の三男・新羅三郎義光のお墓があることが分かった。建立の順としては恐らく新羅三郎義光のお墓→新羅善神堂(室町時代に足利尊氏が再興し豊臣秀吉により破壊され後に再々興)→弘文天皇御陵(長らく大友皇子の呼称だったが、明治天皇により第39代弘文天皇と追贈されこの地に御陵を策定し整備)となると思うが、時代の異なる歴史的建造物が隣接しているのが不思議な感じがする。しかし、元はといえば智証大師円珍が比叡山を下り、三井寺(園城寺)を建立したことが縁で新羅三郎義光もこの寺の中にあった新羅善神堂で元服し、足利尊氏も再興し、三井寺の実際の大勧進は大友皇子の子どもと伝えられているから、園城寺の御本尊が大きな鍵なのかもしれない。 それから、御陵内に植えられている樹木や苔類も手入れが行き届き...
Read more滋賀県大津市の市役所裏にある天皇陵です。滋賀県にある唯一の天皇陵になります。672年に起こった、有名な壬申の乱に関係しています。
672年1月、大津京の宮を収めていた38代天皇の天智天皇が亡くなりました。その後継をめぐり争いました。
当時は天智天皇の後継は、天智天皇を産んだ母方の子供が継ぐことになっていました。これからすると、天智天皇の弟の大海人皇子になりますが、天智天皇は、その掟を破って、成績が良かった自分の子供である大友皇子を据えることにしたのです。 これに意を唱えるた大海人皇子(後の40代天武天皇)が大友皇子(後の39代天皇)に仕掛けた反乱戦争になります。
結果は、瀬田の唐橋に陣取り橋板をとり大海人皇子を迎えますが、これが最後の闘いになり、翌日大友皇子は、前山(さきやま)で首を吊りなくなっています。お父さんの近くの大津京の宮の近くの現在の大津市役所裏に陵墓をおきました。
1870年になり、明治政府は、7か月天智天皇の跡を収めていたと認めて、39代天皇になっています。それで弘文天皇陵を造っています。
アクセスは、京阪石坂線大津市役所前下車、徒歩3分です。JR湖西線大津京駅🚉下車し、...
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