延喜式神名帳の山城國乙訓郡の項に記載のある自玉手祭来酒解神の論社の一社。 明治に天王山にある祠が自玉手祭来酒解神と比定されたが、当初はこの地にあったという説がある。今は当社が酒解神社も管理していて、御朱印も当社で頂けるはず。
JR京都線の山崎駅、阪急京都線の大山崎駅のすぐ近くに鎮座。 社伝によると、石清水八幡宮は貞観元年(859)に清和天皇が宇佐神宮より八幡大神を分霊するにあたり、大安寺の僧の行教がまずこの地に石清水八幡宮を創建し、その後、朝廷からの指示で、橘良基が現在の地に社殿を建立した。したがって、当社は石清水八幡宮の元社であるという。 未確認なのですが、当社には石清水八幡宮と彫られた灯籠もあるらしい。
以前、石清水八幡宮のところでも書きましたが、離宮八幡宮の地に最初の石清水八幡宮が建てられ、その後1年で今の場所に遷ったというのは、どうにも納得できない話に思える。なぜそんなことをする必要があったのか、理由がわからない。 むしろ、石清水八幡宮は当初から今の場所にあったのではないだろうか。 この離宮八幡宮のある山崎は今でこそ、いい水を使っていい酒を造る工場があることで知られているが、その昔は胡麻油の生産と販売を一手に握る大山崎油神人と呼ばれる団体があった。この団体は石清水八幡宮に供える油を扱えることを理由に、各国の関所を自由に通行でき、胡麻を独占的に買い占め、販売も一手に行う権利があった。 この団体は共和制的な団体で、政治的にも強い力を持っていて、幕末まで続いていた。 この団体と石清水八幡宮との繋がりは4月3日に行われる日使頭祭(ひのとさい)という神事があり、川の反対側の石清水八幡宮まで参拝するもの。
おそらく、大山崎油神人が石清水八幡宮との関係を喧伝することで、その力を高めてきたことから、当社が石清水八幡宮の元地であるという話が生まれたのだろう、と思う。
離宮というのは、嵯峨天皇の離宮「河陽離宮」(かやりきゅう)の跡地であったことによる。 この地には大山崎油神人が川の反対の石清水八幡宮まで行くのは大変だから、八幡神を分祀した社があって、それが現在の離宮八幡宮になったのか。あるいは、今は天王山に鎮座する自玉手祭来酒解神があったのだろうか。
サントリーの大山崎の工場を見学した際、こんこんと湧き出る豊かな水を見て、此の地に酒解神を祀る式内社があっても不思議ではないように思った。なお、酒解神は酒と付く...
Read moreWe happened upon this shrine on the way back from a nice lunch and a tour of the Yamazaki distillery. I wish we had allotted a little more time. It is lovingly maintained and peaceful. We paid our respects and picked up a very...
Read more山崎にある離宮八幡宮散策
2000年2月に司馬遼太郎の作品に描かれている斎藤道三が、この地で油売りをする姿を思い浮かべながら、山崎にある離宮八幡宮の散策を楽しんだ事を思い出す。
離宮八幡宮は日本における荏胡麻製油発祥の地であり、日本で唯一の「油の神様」として親しまれている。平安時代末期、ここの神主が荏胡麻(エゴマ)から油をしぼる道具を発明したのが始まりだった様だ。荏胡麻油を、石清水八幡宮や宮中に献上するようになり、やがて離宮八幡宮は朝廷や幕府から手厚い保護を受けるようになり「油座」という組合が形成され独占機構が出来上がった。ここから全国へ広まり、神社仏閣の灯明の油はすべて「山崎の油」が使われるようになった。
室町時代には製油専売の特権が与えられ、足利義満から離宮八幡宮の領域が自治区として認められている。司馬遼太郎の作品に描かれている斎藤道三がその既得権を打破する話が面白い。
尚、この場所は嵯峨天皇の河陽宮があった所で、そもそも平安時代の初め清和天皇の頃、宇佐神宮から帰郷した僧侶が岩清水が湧き出るこの地に八幡宮を祀ったのがはじまり。その後、岩清水八幡宮は今の男山に移され、この地は、嵯峨天皇の宮があった事から離宮八幡と呼ばれるようになったとの事。
山崎のこの地は三つの河、宇治川、桂川、木津川が交わって淀川のなる地であり川湊として栄えた場所でもある。
禁門の変では、この離宮八幡が長州藩の屯所となり全てが焼け落ちてしまったとの事。唯一南門と東門だけが奇跡的に助かったとの事。真木和泉などは、ここ屯所を出て天王山で切腹している。彼らの墓は、宝積寺...
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