埼玉県さいたま市は岩槻区に有ります「岩槻城跡」です。釣り、ラーメン、史跡見学という流れで訪問です。
こちら岩槻城の築城年は正確には不明ですが諸説有る様です。
まず最初の築城主が不明な説で、築城年は鎌倉時代中期以前説。鎌倉時代中期の1246年の古文書に、既にこの地に「岩付城」の名が見えるとの事。なので少なくとも1246年以前という説。
あとは城跡公園内の説明書看板に有る15世紀中頃(1400年代中頃)に築城された説。 ①長禄元年(1457年)に扇ヶ谷•上杉持朝とその重臣•大田資清(道真)と大田道灌の親子が築城した説。 ②さらに、文明十年(1478年)に忍城主の成田顕秦の父•成田資員(成田正等)が築城した説。 (*成田氏、大田氏はそれぞれ実際岩槻城に一時期在城しています)
歴史の諸説有りは…色々想像出来て楽しいですねぇ。
僕は最初の説の鎌倉時代の御家人だった在地豪族のいづれかが築城したのが最初の築城では?と推測します。あくまで個人的な推測です。 そして成田氏や大田氏は後の時代の在城改修者では?と考えます。が…
ただ…確か成田氏も大田氏も鎌倉時代には鎌倉幕府御家人だったと思うので、あるいは…この二氏のいづれかが鎌倉時代の中期以前に最初に岩付城を築城したかもしれませんね。それも考えられます。分かりませんが…。 (*特に成田氏は源頼朝の元、御家人として奥州藤原氏討伐に出陣し手柄をたて、そして恩賞として陸奥国の現•鹿角市~弘前市辺りを領地として貰い、二男三男の庶流系統がそちらに移住•土着し、岩槻辺りも含む武蔵国北部の本貫地と二つに分かれてたと言う鎌倉時代の歴史も有りますので、成田氏は古くからこの辺りに縁が有ります)
城跡公園内には黒門や裏門、そして土塁や空堀などの遺構が残ります。比較的にシンプルな感じの平地の城跡でした。 ただ…往時の城の縄張り図を添付しておきますが、この城跡公園は城縄張り内の、ほんの端っこの一部なのが分かります。北側に存在した本丸、二の丸、三の丸などは住宅街になってしまっています。
あ〜あと実際に室町末期~戦国期に在城した成田氏は先にも書いた様に鎌倉幕府御家人として源頼朝や執権•鎌倉北条氏に仕えた後、古河公方足利氏や将軍家足利氏を主君とし、更にその後は後北条氏を主君とし忍城や岩槻城を領有したと思います。豊臣秀吉の北条攻めでは後北条氏方として戦っていますね。豊臣秀吉の北条攻めで唯一落城しなかったのが成田氏の忍城です。素晴らしい。
因みに後北条氏自体も一時期は岩槻城に在城していましたので、後北条氏お得意のワッフル状の障子堀も発掘調査で発見されています。
また縄張り図からは、この辺りも昔は忍城の様に湿地に囲まれた広大な自然の要害だったのが見て取れますね。頭の中で往時の姿の想像が膨らみますよ。
皆さんも是非にブラリと訪れてみ...
Read moreかつての荒川に連なる沼沢地に築かれた城という案内板を見て、随分と変わった造りだというのが第一印象。しかも荒川といえば昭和に入ってからも水害で甚大な被害をもたらしていたほどのある意味危険な要素。 50年ぐらい前まで、岩槻の市街は大宮台地の東端に位置していて元荒川に近いところは水田が広がっていた。その市街地は台地上にあり、かつての家臣団の武家屋敷や町人が居住するエリアだった。 普通は城主の居城は周囲を見渡せる一段高いところに築かれるがここではその逆で、高いところに家臣や町人が住み、低い土地に城主の居城があったようだ。 現在「本丸」という地名があるが、中心的な建造物が存在したと思われるエリアは現在の城址公園とは異なる場所ではないだろうか。 現在、元荒川右岸の東武野田線鉄橋の少し上流に沼があるが、これは元荒川(当時は荒川)の残跡沼でかつては岩槻城の外堀になっていた部分です。当時の地形と「本丸」という地名から、現在の城址公園が城の中心的なエリアではなかったことは疑う余地もありません。 この公園自体、今では「城址公園」と呼んでいるが、古老は「おはやし公園」と呼んでいた。 時の鐘のところでも感じたのですが、岩槻というところは歴史と伝統がありながら、自らその価値を軽視しているのか、そういう遺産が全く活かされていない。 今頃駅舎をそれっぽく改築したところで話にならない。 交通手段が馬と徒歩の時代は中山道と日光街道からほぼ等距離に位置する城下町岩槻は宿場町の浦和、大宮、粕壁より断然優位な存在で、おそらく川越と双璧をなしていたのではないだろうか。その川越は今や観光地として確固たる存在感を示しているのに対して岩槻は浦和と大宮を中心とするさいたま市に飲み込まれるという有様。これこそ下克上ではないだろうか。 川越も大宮も粕壁も鉄道の誘致に乗り、岩槻はあんな煙を撒き散らすものは来るなという理由で拒否したと古老から聞いたことがある。その結果大宮駅が誕生し、現在の発展に繋がっている。だとすれば、その下克上をもたらしたのは他ならぬ岩槻自身で...
Read more岩槻城(いわつきじょう)は、埼玉県さいたま市岩槻区にあった中世から近世にかけての平城です。関東の戦国史や江戸時代の幕府体制において重要な役割を果たしました。
岩槻城の歴史
築城と戦国時代
築城時期ははっきりしませんが、室町時代の15世紀頃とされます。
古河公方(足利氏)に仕えた太田道真・道灌父子が築いたという説が有力です。
戦国時代には、北条氏の重要拠点となり、岩槻太田氏(太田資正など)が城主を務めました。
1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅びると、岩槻城も開城しました。
江戸時代
徳川家康の関東入部後、城は幕府の支配下となり、岩槻藩の藩庁として機能しました。
城主は阿部氏、青山氏などの譜代大名が歴任。
江戸の北方を守る要所であり、幕府の重要拠点でした。
明治時代以降
1873年(明治6年)に廃城となり、城郭の大部分が取り壊されました。
現在は岩槻城址公園として整備されています。
岩槻城の特徴
平城で、周囲には自然の川(元荒川)や堀を利用した防御施設が整えられていました。
城の規模は大きく、本丸・二の丸・三の丸のほか、多くの曲輪(くるわ)が配置されていました。
江戸時代には城下町としても発展し、交通の要衝としての役割も担いました。
現在の岩槻城址
岩槻城址公園には、本丸跡や土塁、堀跡が残っています。
近くには「岩槻郷土資料館」があり、岩槻城や地域の歴史について学べます。
桜の名所としても知られ、春には花見スポットとして賑わいます。
岩槻城は、戦国時代から江戸時代にかけて関東の歴史を語る上で欠かせない城です。日本城郭検定の勉強にもなるので、実際に訪れて...
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