別名 岩付城、岩附城、白鶴城、浮城 城の形式 総曲輪式平城 天守閣 無し2層2階の瓦櫓が天守閣の代用として使われた。
岩槻城の歴史 諸説あり。 1、鎌倉時代に岩附城という城郭があったが築城者は不明。 2、太田道真・道灌親子が江戸城、河越城と共に築いた説 3、古河公方の奉公衆の渋江氏が築いた説 4、のぼうの城でお馴染み、忍城主の成田顕泰(あきやす)の父、成田自耕斎正等(じこうさい・しょうとう)が築いた説 どれも説であり、だれが築いたかは不明。
戦国時代になると扇谷(おうぎがやつ)上杉氏、山内上杉氏の対立で関東が戦乱期に突入すると太田氏が岩槻城を奪取し、一時期居城とします。相模の雄の北条早雲が伊豆、相模を手中に入れると、本格的に関東進出し天文15年(1546年)河越夜戦で北条氏が勝利が決定的になり武蔵国の支配権が北条氏のものになります。太田氏は徹底抗戦するも、太田資正(すけまさ)の嫡男氏資は北条氏康と内通し、父資正を追放し岩付城は北条氏の物となる。天正18年(1590年)豊臣秀吉公による小田原征伐の際に、当時の岩付城城主北条氏房は小田原城にて籠城していたため、氏房の家臣の伊達房実(ふさざね)は僅か2000の兵とともに籠城するも、豊臣五奉行の一人で浅野長政に倍の2万の兵で攻められ数日で落城します。(※その後、伊達房実は徳川家康公に召し抱えられ450石取りの旗本となる)
江戸時代、高力家、青山家、阿部家、板倉家、戸田家、藤井松平家、小笠原家、永井家、大岡家で明治維新となる。 明治維新後は岩槻市に払い下げられる。
現在の岩槻城址公園は、本城の一部で本城の大名庭園部を公園にしたもので、かつての岩槻城本丸、二の丸、三の丸があったのは足利銀行、公民館、公民館プールやさいたま市消防局太田出張所やすき家があった付近で、道路や住宅街になっている。岩槻城の規模は総面積99.7293㎡、城内面積10.9560㎡で周囲8キロ四方が全て城という巨大城郭で、これは江戸城、大阪城、小田原城、館林城に次ぐ大きさで、土塁と水濠で構成されていました。
・岩槻藩 江戸時代に最初に入封したのは徳川家康公の三河三奉行の一人で譜代中の譜代と言われた最側近の高力清長(こうりき・きよなが)が2万石で立藩します。清長の嫡男忠房は1万石を加増され遠江国(現在の静岡県)浜松藩へ移封し、一旦岩槻は幕領となる
元和6年(1620年)常陸国(現在の茨城県)江戸崎藩より、幕府老中青山忠俊が4.5万石で入る。忠俊は徳川第3代将軍徳川家光公に常に政治(まつりごと)で異論を唱えたので、ついに勘気を被り上総国(現在の千葉県)大多喜藩に2万石に減封される。
相模国(現在の神奈川県)小田原藩より阿部正次が5.5万石で入る。正次は寛永3年(1626年)に大阪城代となり8.6万石にまで加増される。岩槻藩には嫡男の正澄が3万石で領有する。しかし正澄は早世(若くして死ぬこと)し、次男重次が5.9万石で藩主となる。正保4年(1647年)阿部正次が死去すると、父の遺領分合わせ9.9万石になる。慶安4年(1651年)徳川家光公が死去。重次は家光公を追い殉死する。(※殉死…主君や夫を追って自殺すること)重次の子定高が跡を継ぐも、25歳で死去。 定高には幼少の正邦が居たが、あまりに幼少だったため政務が困難でした。そのため分家の定高の弟の正春が家督を継ぎ11.5万石で知行した。しかし正春は家臣達によく思われてなく、ついに不満を持つ旧臣達にお家騒動を起こされてしまう。幕府は、定高の子正邦を正統後継者として、丹後国(現在の京都府)宮津藩へ移封。正春は1.6万石で下総大多喜藩へ移封する。
下野国(現在の栃木県)烏山藩より板倉重種が6万石で入封する。重種は幕府老中となるも、僅か3ヶ月で失脚し信濃国(現在の長野県)板木藩へ移封。
常陸下館藩より幕府老中戸田忠温(ただはる)が5.1万石で入封する。貞享3年(1686年)1万石を加増され、下総国(現在の千葉県の一部、埼玉県の一部)佐倉藩へ移封。
丹波国亀山藩より、藤井松平忠周(ただちか)が4.8万石で入封する。忠周の治世の時に領内で狼が子供を噛み殺す事件が多数起こります。忠周は幕府より許可を得て、狼を撃ち殺します。しかし折しも徳川家第5代将軍徳川綱吉公の治世で、「生類憐みの令」が発布されているBadTimingで、元禄10年(1697年)但馬国(現在の京都府の一部、兵庫県の一部)出石藩へ移封。
三河国(現在の愛知県)吉田藩より幕府老中小笠原長重が5万石で入封する。さらに埼玉郡内に1万石を加増されるも、長重が病気を患い、長熙(ながひろ)が継ぐも遠江国掛川藩へ移封する。
信濃国飯山藩より永井直敬(なおひろ)が3.3万石で入封する。直敬は入封直後に死去。跡を継いだ尚平も18歳で死去。尚平の弟直陳(なおのぶ)が家督を継ぎ、美濃国(現在の岐阜県)加納藩へ移封。
旗本から、若年寄、将軍御側御用人の大岡忠光が2万石で入封する。大岡という名前を聞いて、ん?と思った方は歴史通です。そう徳川家第8代将軍徳川吉宗公の側近として活躍した南町奉行、寺社奉行の大岡越前守忠相のはとこにあたる人物が大岡忠光。忠相とは親戚で若い時から親交がありました。忠光は当初300石の旗本でしたが、吉宗公の嫡男家重公(後に徳川第9代将軍)の小姓となり二の丸、西の丸にて近習、側近として仕え800石まで昇進します。また家重公は言語が不明瞭で唯一聞き取りが出来たのが忠光で、忠光は若年寄、将軍家御側御用人として大名にまで異例の出世を遂げます。
孫の代3代藩主忠要(ただとし)の時に天明の大飢饉が起こり、藩内は甚大な被害を受けます。財政は大変な窮乏化し、有能な人材登用と厳しい倹約でなんとか凌ぎます。
5代藩主忠正の時に藩校、武芸稽古場を設置
6代藩主忠固(ただかた)は奏者番、若年寄へなるも米の価格が高騰し、大規模な百姓一揆が起こります。またアヘン戦争で大国の清国が敗れるという報が日本に届き、幕府は海防強化の一環で大砲整備と砲台の整備を諸国大名に命令を下し、岩槻藩にも大砲鋳造の命令が下り、財政は破綻状態になります。 また、江戸城本丸修繕の普請奉行を努め3000石が加増されるも、財政が良くなるどころかさらなる財政の悪化に拍車がかかります。
7代藩主忠恕(ただひろ)の時は幕末の動乱期と天災でまたしても財政が破綻状態になってしまいます。
慶応2年(1866年)忠恕は隠居し、嫡男忠貫(ただつら)は慶応3年(1867年)庄内藩、上山藩、鯖江藩の連合軍で、江戸薩摩藩邸な焼討に参加するも、一転翌慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、新政府軍に恭順し幕府軍追討ちで軍功を挙げます。 版籍奉還で知藩事、明治4年(1871年)廃藩置県にて岩槻藩は廃藩となり、忠貫は華族に列し子爵となる。
・御城印は水野書店さんか、和菓子の田中屋本店さんで販売されています。
アクセス 東武野田線アーバンパークライン、岩...
Read more岩槻城は、関東で勃発した鎌倉公方(後に古河公方)足利氏vs関東管領上杉氏によるガチンコ頂上決戦だった室町享徳の乱の時代、上杉氏の重臣太田氏が築城されたと言われています。が、近年は成田氏の手による、との説もあります。 享徳の乱の時代は、大雑把に言って利根川(現在の古利根川)を挟んで北東を古河公方足利氏が支配、南西が関東管領上杉氏の勢力であり、古利根川にほど近い岩槻城は、まさに上杉氏の最前線軍事拠点として機能しました。 その後に燃え広がった戦国時代では、武蔵国の趨勢を左右する重要拠点として、山内上杉vs扇谷上杉の上杉家お家騒動やそれに乗じた後北条氏、長尾改め上杉謙信や佐竹氏など、数々の戦乱の舞台となります。 その後江戸時代になると岩槻藩は、河越藩、忍藩と共に、江戸防衛の使命を得た大藩に位置付けられました。
岩槻城の立地は、北〜東を元荒川が流れており、またその周囲にあった湿地帯を利用して、強固かつ広大な縄張を構築しました。 最盛期の江戸時代には、家臣の武家屋敷や城下町までもが堀・土塁の内側に置かれる「総構え」の構造となります。また、日光御成道の宿場町でもあり大きな発展を遂げました。 当時の岩槻城の城域は、西は現在の岩槻駅から人間総合科学大学あたりまで、北は久伊豆神社、南は国道16号線あたりまでと広大で、この公園は当時は「新曲輪」「鍛冶曲輪」と呼ばれ、城内のほんの一部でしかありませんでした。 尚、本丸のあった地区は、現在の住所でも「岩槻区本丸」です。わかりやすいですね。
そんな岩槻の有名人といえば、日本初(?)のドッグブリーダーこと、戦国時代の岩槻城主だった太田資正(三楽斎)が真っ先に挙がるでしょう。 資正は江戸城を築いたことでも知られる名将太田道灌の曾孫であり、織田信長の12歳年上、徳川家康の22歳年上にあたります。
太田氏は代々関東管領上杉氏の重臣の家柄であり、資正も扇谷上杉家臣でした。そのため、足利・上杉をまとめてぶっこ抜いて関東八州を支配せんとした北条氏に対してただならぬ敵愾心を持ち、幾度となく北条氏と対峙します。 北条氏に攻め込まれ、不本意ながらも降伏臣従していた時期もありましたが、長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉家を継ぐと、あっさり北条氏を裏切り上杉謙信の関東派兵に率先して参加、再び対北条の先鋒として活躍しました。
しかし、今や関東の支配者となった北条氏に対して、頑ななまでに敵対する方針は家中でも異論が出て、ついには実の息子に岩槻城を追放されてしまいます。 ところがその息子は北条氏に仕えた直後、上総の里見氏との国府台合戦において殿軍を命じられ、戦死という残念フラグが立ってしまいました。 一方で追放された資正は、今度は佐竹氏を頼り、茨城県石岡の片野城で客将のような扱いを受けながらも、故郷岩槻の奪還を図るべく、生涯をかけて北条氏に対抗しました。
かの直江兼続は書面にて、「世に武将は多数いるが、自分が主君を選ぶならば上杉謙信か太田三楽斎(資正)しかいない」と言わしめるほどの人物だったようです。
さて、そんなドッグブリーダー資正ですが、彼が岩槻城と松山城(埼玉県東松山市)の両拠点を支配していた時期のこと。資正は普段から岩槻と松山にそれぞれ50匹ずつ犬を飼っていて、時々両城の犬を入れ替えていました。 そんな折、松山城下において一揆をきっかけに北条軍が松山城を包囲する事態が発生しました。 肝心の資正は岩槻にいましたが、普段から松山城の城代には「有事の際は犬を放つように」と指示しており、この危機に際して50匹の犬を逃します。 犬は包囲していた北条軍を難なく突破、ワンワンワンワン言いながら(想像です)一路故郷の岩槻城を目指します。 岩槻城に到着した犬達を見た資正は、犬の首に括り付けられた竹筒の中にあった松山城の危機を知らせる書状により事態を把握、至急援軍を派兵してあっという間に松山城の救援に成功したそう。
ペディグリーチャムの来年のイメージ...
Read moreThe castle no longer exists. there is one old train carriage, the train is very clean, and cool because it has air conditioning. Sitting is a pair of wooden dolls made from a wooden tree or perhaps from bamboo. The garden is quite spacious, there is a pond full of lotus flowers and a very large gold fish, there is also a fountain, a clock statue the numbers are in kanji and Japanese dolls, here there is also a Japanese doll grave, this area is famous for making Japanese dolls or commonly called hinamatsuri, march 3...
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