森鴎外が住んでた場所は長らく文京区の図書館(今は道を挟んですぐ近所に移転)であり、その図書館内のコーナーとして鴎外関連の展示をしていたのが背景にあるらしい。そのようなほうほうと鴎外好き、郷土史好きな方ならきっと楽しめるツアーが記念館主催で開催されてるのでその時間に合わせて訪問すると良い。何度か訪問してるのに、過去の時には庭に目もくれなかったが、ツアーは屋敷を彷彿とさせるシンボルツリーのイチョウや、門があった場所から見渡す景色(今はビルの合間にすっくと健気に伸びるスカイツリーが一見の価値あり)を説明いただき、記念館の地階にある展示フロアです常設展の展示物を駆け足ながら丁寧に教わる。
展示物はゴシップや証拠があって展示できないものは出せないとのことで、誰もが気になるドイツ留学時代に、帰国したら次の船便で追いかけてきた女性問題「鴎外ってそんなにモテたの?」とか陸軍勤務時代に脚気の原因に気が付かないどころか持ち前のなんでも論争して勝とうとする性格ゆえ真実の解明を遅らせた説、死んだ時に僕は森林太郎として死にたいんだよ仕事の煩わしい役職やしきたりいらないからの真相など、ヒントになるようなものを随所に見ながら自分で答えは見つける脱出ゲームのようで楽しい。
また、鴎外といえば横浜市歌の詩を書いたことで知られるが、その背景や当時の状況知りたいと尋ねたら2階のライブラリーで司書の方があっという間に関連資料を用意して下さって、長年の謎が解けた。先に曲を作るよう依頼して、歌詞はその表紙に合わせて横浜の小さな田舎の煙が今は賑やかだという単純な構成なれど、鴎外自身も横浜港を出国や帰国に利用して知人友人の見送りに出かけた思い出深い場所を3週間かけずに書き上げたことを知る。横浜港50周年記念に依頼を受けたその祝賀の宴に招かれて、今とは少し楽曲の調は異なるけれど児童たちが練習の成果を歌い上げた瞬間の鴎外の顔を見てみたいものだ。
ここに来ると小さい日本人がドイツに留学してその後お役所勤めをしながらも文学に目覚め、近代を駆け抜けた息吹を近しく感じる。
この資料館の特徴はやたら写真撮るのダメです、唯一に近く許されてるのは鴎外等身大パネルでちっこいなと感じるくらいなんだけど、もっと発想を変えて、撮れ...
Read more初代「知の巨人」が丸分かり!
鴎外が30歳から没するまでの30年間を過ごした居宅「観潮楼」の跡地に建つ、文京区立の資料館です。 鴎外の生涯の解説や直筆生原稿などが展示されています。
鴎外といえば明治の大小説家であると共に、軍人・医師として陸軍医務部長(中将)まで出世した、まさに勉学・芸術ともに卓越した稀に見る才人でした。 なんせ、15歳(2歳サバを読んだ!)で現在の東大医学部に入学して19歳で卒業、という学歴。さらには芸大の美術解剖学(そんな学問あるんだ?!)や、東京専門学校(現在の早稲田大学の全身)、慶應義塾大学の講師を務めるなど、様々な分野に通じたMr.パーフェクトですね。
軍医時代に発生した陸軍脚気パニックの際は、感染症説を唱えて被害を拡大させた張本人という評価もあります。しかし、当時の医学の限界と、軍医という職業ヒエラルキーの中での意見具申と考えると、やむを得ない面も理解できます。
一方で、エキセントリックな論評で坪内逍遥を辟易させたり、上記の脚気論争でビタミン欠乏が原因であることがほぼ明らかになってもなお、「それについては専門外だからよく知らんもんね」などとホッカムリをする姿勢など、意外と人間臭い面もあるようです。 また、有名な話では子供たちに「於菟(オット)」や「茉莉(マリ)」「杏奴(アンヌ)」「不律(フリツ)」「類(ルイ)」、孫には「𣝣(じゃく)と西欧(ドイツ)風の名前を付けており、「元祖キラキラネーム」と言われています。 その後も森家は多くの方がその伝統を踏襲しており、ご本人達も気に入っているのでしょう。
他にも、なかなかのマザコンでフェミニストの気配があったり、一方で妾を囲っていることを黒岩涙香率いる萬朝報で暴露されたり(明治の途中までは妾は正式な地位でした)、石部金吉のようなオフィシャルキャリアとは異なる一個人としての森林太郎(シンリンタロウではありません)の人間像がうっすら浮かんで来るようです。
まあ、ただの聖人君子なんて面白くもなんともないので、こ...
Read more根津駅を下車し、地上に出たところで街灯に「文豪の街」のプレートが見られる。今はさらに「鴎外没後100年」の旗(?)も見られる。これのせいもあるのかなぁと思いながら、根津神社に向かって歩く。去年の暮れあたりから「類」、「奏鳴曲-北里と鴎外-」と立て続けに森鴎外絡みの小説を読んでいた。偶然ではあるが、それまで森鴎外のイメージは明治時代の人で、軍医。ガチガチの融通が効かない人で、さらに「舞姫」が鴎外の事を書いているという事で、ハッキリ言ってあまり良いイメージがなかった。だいぶ昔の学生時代に感じたことで、それ以降アップデートが出来ていなかったことも事実ではあったが。今回「類」を読んでから家庭人としての鴎外を知り、そういえば、日医大病院の近くに「観潮楼」の跡地があったなぁ、確か記念館になっていたようなと思い、足を向けた次第であった。元々この周辺の雰囲気は好きで散策はしたことはあったが、今回のように時間に余裕がなかったことから、いつも駆け足だったため、楽しみだった。薮下通りからの入り口に到着し、ここが昔の正門で敷石や大イチョウ、三人冗語が残っていることを知ったとき、気分はちょっとタイムスリップした気がした。類や杏奴が「ぱっぱ」と出迎えたシーンを連想したのである。ちょうど「鴎外の東京の住まい」という催しが開催中で、様々な文豪との交流がわかる書簡や生い立ち、千駄木の住まいに来るまで何処に住んでいたかわかる地図(というのかな)や子供たちに向けた手紙など、鴎外の人となりがわかるものであった。千駄木の住まいの模型を見たときは、結構広い家だったんだなぁと思いながら、類が作った花壇はこの辺りかなぁと思いを馳せた。映像で、作家の平野啓一郎さんが、どうにもできないこともある(と言ってた気がするが)と言うのも、「奏鳴曲」を読んだ後のためか、すんなり理解出来た気がした。(私もそれなりに人生経験をしてきたのかなぁ)。ちょっとゆっくり回ってしまったためか、喫茶店に入る時間がなくなってしまったが、ま...
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