何度かお詣りしています。初詣にも一度だけ出掛けています。甘酒をご馳走になりました。ただ、倒木の危険があるとのことで、椋(むく)?の大木が切られている場面を見たことがありました。理由は納得できていたものの、背丈の低い樹木しか無くなってしまった神社への足が遠のいていたような気がしています。
ところが、久し振りにお詣りして、なんとも懐かしい気持ちになったのです。それ程近しくあるわけでもありませんので、自分の気持ちの動きが意外でした。ここは、無人で、手水舎で清める水も無いこぢんまりとした神社です。 はっきりとは分からないのですが、物心ついた子供時代から身近にあった氷川神社との類似性を感じ取っていたのかもしれません。
私の他に2組の参拝者がいらっしゃいました。ふだん着感覚でお詣りしているようでした。特別なことではなく、日常の生活に結びついた自然な存在として関わっているからであろうと勝手な憶測をしてしまいました。 素朴な信仰心を好んでいることに、改めて気付かされました。
ご祭神は、氷川神社共通のようです。 スサノオノミコト(夫)、クシナダヒメノミコト(妻)、オオナムチノミコト(子、別名大国主命)です。
古い神社のようですが、年代は不明です。 平安時代、坂上田村麻呂が蝦夷征伐に出掛けた際、別の賊との合戦になったものの地理に疎かった田村麻呂の軍勢が敵に囲まれてしまったとのこと。そこで、大宮の氷川神社に先勝祈願をしました。鈴なりの椋(むく)の木の実を兵士に食べさせると、賊を退散させることができたとのことです。田村麻呂がお礼のしるしに椋の木の近くに社を祀ったのが、館の氷川神社の始まりであったと伝えられています。(柏町付近の伝説) すると、1200年くらいの歴史があることになります。 (現在の社殿は、昭和53年、1978年に竣工されています)
館の名前の由来は、平安時代にこの地を開拓した藤原長勝の居館があったことに因んでいるそうです。その後、室町時代には「柏の城」の守護神とされていました。現在は、本丸の跡地が、志木第三小学校になっています。
2回目の初詣に出かけてみようと思います。
追記 2019/12/13 神山博光氏より「戦勝祈願の返礼ならば、祈願した神社に対して行うのが普通だと思います」とのご異見がありました。通常はご指摘の通りだと、私も理解しています。されど、志木市の広報の記述を参考にしました。私の知らない解釈もありかな!?と判断しました。(誤読も排除しません)ご指摘、...
Read more平安時代に坂上田村麻呂が蝦夷征伐に赴き戦勝祈願の返礼として創建したという説があるそうですけど、戦勝祈願の返礼なら祈願した神社に対して行うのが普通だと思いますけど、どうなんでしょう?また、同じ平安時代の貞観年間(860~877年)にこの地の領主の館があったことから「舘」と呼ばれるようになったとされていますけど、これも変ですね。「館」と「舘」じゃ字が違うじゃありませんか。まぁ、そんなことはどうでもいいのかな?志木は引又村と舘村が明治時代に合併したもので、本来は郡が勧めるものらしいんだけど、何故か県が勧めたそうです。しかし、新しい町で争いになり、合併はご破算になりかけたそうです。慌てた県は、仲裁にはいったそうですが、引又村は江戸初期に舘村から分村したものだから、舘村にすべきだと舘村側は譲らず、引又村はネームバリューはこちらが上と譲らなかった。引又というのは略字で本来は「曳馬多」と書くそうで、新河岸川の舟運で栄えたので荷馬車が多いことからこの名が付いたそうです。しかし、略字の引又では「股を引く」みたいな感じでイメージが悪いので許せなんでしょうんだろう。県の役人は古い地名なら納得するだろうということで古文書を調べて「志木郷」という名を発見して、それを提示したところ「古い由緒ある名なら」ということで両村ともに受け入れたのだが、志木郷という名はここの古い地名ではなく、今の和光市の白子に奈良時代に置かれた新羅郡の役所を設けた場所の地名だったのが後になって判明したそうです。そのため、志木村は合併や分離を繰り返す度に町名を変えていったけど、昭和50年の市制施行の時には志木市に落ちついたそうです。まぁ、神社の話から逸...
Read more犬の散歩で通る神社です! 昔ながらの地域に根付いた小さな神社です 武道館と公園が隣接しています 40年ほど前は、御神木が沢山あり、四季を感じる樹木や草花がありましたが、現在の住宅事情や日当たり・落ち葉・強風時の木々の音・老木による枯れ枝や倒木で、殆どが伐採されてしまいました😰 春には、社殿の脇の桜が咲くので、ぜひ、散策とお...
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