Durante a expedição de Minamoto no Yoriyoshi e seu filho Yoshiie a Oshu (a Zenkunen no Era e a Gosannen no Era), um servo elogiado como guerreiro, Sarutota, morreu de exaustão em uma enseada aqui. Quando os pescadores locais souberam disso, construíram um monte no terreno do santuário e o enterraram com grande honra. Dizem que o nome do santuário "Sarue" é uma combinação dos caracteres "saru" (macaco) de Sarutota e "e" (rio). A data de sua fundação é desconhecida, mas na era Kohei (1058), tornou-se um santuário Inari com mais de 1.000 m2 de área e atraiu a fé da área local. Depois que o antigo edifício principal do santuário foi incendiado no Grande Terremoto de Kanto, ele foi reconstruído em 1931 pelo Sr. Isaku Ogawa, um engenheiro de design da Agência da Casa Imperial, e é o mais antigo e elegante edifício de santuário feito de concreto armado em Tóquio. Como resultado, ele escapou milagrosamente dos Grandes Ataques Aéreos de Tóquio durante a Grande Guerra do Leste Asiático, quando a área de Fukagawa foi reduzida a cinzas, e diz-se que da Estação Kinshicho, apenas este santuário podia ser visto no meio das ruínas queimadas. Em 1946, o santuário foi renomeado de "Santuário Sarue Inari" depois que a divindade Ise Omikami foi consagrada lá. O monumento do santuário que leva o nome "Santuário Inari" ainda transmite isso até hoje. Naquela época, a área dos paroquianos do santuário se estendia ao longo do Rio Arakawa até Higashi-Oshima. É um santuário histórico com mais de 1.000 anos de história que zela por Fukagawa desde os tempos antigos. A divindade consagrada é Amaterasu Omikami e Uka no Mitama no Kami. ◆ Terreno do santuário Santuário Bato Kannon: Um santuário dedicado à proteção dos animais e viagens seguras Santuário Fujimori Inari Foi consagrado no depósito oficial de madeira do Xogunato Edo. Santuário Kitamuki Inari Uka no Mitama no Kami • Yakyuu Inari no Kami...
Read more戦災のためか、はたまた潮風が激しい立地のためか、鉄筋コンクリート造りの神社です。 ただ、由緒はかなり古いようです。
東京は東国という事もあってか、或いは徳川家康が源氏の子孫を自称していた事からか、源義家に関する大國魂神社、源頼朝の井戸掘りの伝説のある善福寺公園の遅野井、源頼朝御手植えの松が植わる井草八幡宮など源氏に関する神社が多々あります。
この猿江神社もその一つで、後三年の役で源頼義に付き従った「猿藤太」を漁民たちが祀った神社になります。 そう、武蔵国というのはもともと蝦夷の征伐のための前線基地で朝廷の武器庫があった事からその名が付けられ、吉祥寺八幡も坂上田村麻呂が建立し、遅野井も源頼朝が奥州藤原氏の征伐の帰りに井戸掘りをした場所なのです。
また、祀ったのが漁民というのもポイントです。大森や羽田付近も漁民や海苔商人が多くいて、江戸湾というのは実は漁業資源が豊かな海であったのです。 境内社の藤森稲荷神社も元々は江戸幕府御用材木蔵に祀られていたというのも江戸の地域性を感じさせられますね。
東京はけして人工的なビジネスばかりや現代的なお洒落なばかりの町ではありません。こうして発掘できる別の風景もあり、面白い場所なのです。
[由緒] 伝承として昔、康平年間(1058~1065年)源頼義が奥州征伐(後三年の役)の頃、この付近の入江に勇々しき戦武士の屍が漂い着き、不思議にも、その屍より毎夜光明を発し村人この屍を丁重に葬る。 武士の鎧に源頼義の臣「猿藤太(さるのとうた)」と記しあり、また懐中よりありがたき経文一巻が出でたり、よって村人「猿藤太」頭文字と入江の「江」を取りて猿江稲荷と尊称し、近郷近在の守護神となし、村落の敬神の地として祀り、又それより地名をも猿江村と称えはじめ現在に至れり。 正に猿江の地名これより発祥せり。 なお、当時、この村落の氏神社である猿江稲荷神社は、古来より「天照大御神」「宇迦之御魂神」とを御祭神としていたが、武人猿藤太の御霊をも合せ加え、代々お祀り申し上げて参りました江戸時代は猿江稲荷神社と称し隣接せる日蓮宗寺院本覚山妙寿寺の住職が代々、守護管理を司っていたが、明治以後近年になり、神保宮司を祭官として招き、併せて村、町の発展とともに町内氏子の者達が、神社の護持運営にあたり、現在に引き...
Read more社務所には拝受できる御朱印(その時期にやってる限定含む御朱印一覧)の掲示がされている。 2023年11月現在、社殿改修による限定記念御朱印も授受中。
しかし、現在特に掲示されていないがミニ御朱印にも対応可。 掲示はないので迷惑ではないか躊躇するが、今でもやっているのか丁寧に尋ねたら、大丈夫ですよ、と、きちんとミニ御朱印にも対応してくれました。 コロナ前の御朱印ブームの際、ミニ御朱印に対応している神社として取り上げられていましたが、ブーム収束やコロナ襲来による過程でやめてしまったり自然消滅してしまったところが多い中、今でも継続されています。 ミニ版には通常版のほか限定御朱印もあり。 但しミニ御朱印帳は置いてない&書き置き形態での頒布はしてらっしゃらないので、拝受する場合は書き入れて欲しいミニ御朱印帳を自分で別途調達して持参する必要あり。
ミニ御朱印と言っても統一スケールが無く幾つかサイズがあり、ミニに対応してくれる寺社仏閣も、そのどれかには対応しているというところが多い中、ここ猿江神社は特に規定のサイズはなく、一番小さくて無理だろうと思われたガチャ商品の「ミニ御朱印帳」でも提示するとこれの片面或いは両面見開き、どちらで?と聞かれる程なので、基本どのサイズでも受けて頂けると思う。
※ガチャ商品の「ミニ御朱印帳」のような物にまで書き入れてくれるのは、ここ猿江神社や台東区の秋葉神社など、限られた場所での極めて稀な事例です。あたりまえではありません。 特別待遇なので、他所の寺社仏閣で引き合いに出して強請るのは絶対に止めて下さい。 また注意点として、あくまでも御朱印帳の体を成している物が前提で、何かとの混在やメモ書き等の形態とかでは対応いたしかねますよ?とのこと。小さくてもきちんと御朱印帳している事。
写真のように書入れをして頂けました。五円玉はサイズ感の参考に。初穂料は通常サイズ版と同一。
但し、対応頂けるのは書き入れできる人が居る場合のみと念を押されたので、今は書ける人が不在なので無理と言われた場合はゴネずに素直に出直すのが良し。 不躾ながら、書き入れられる人が確実にいらっしゃる日時は何時ですか?と尋ねましたが不定期らしく、明言できないとの事なのでこ...
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