訪問日:2024/04/09 国道293号線から脇道に入る。 「足利学校」と書かれた矢印の看板に従い、石畳の路地を進む。すると古い 武家屋敷らしき建物が見えた。しかし、入り口にある「徳入」、右から読むと「入徳」と書かれた門構えが、 ここが武家屋敷ではなく、徳か 何かを学ぶための場所であることを伝えている感じだ。
受付に行く。見学料のことは参加料といい、入場券のことを入学証という。「ご入学おめでとうございます。」との言葉と同時に入学証および学生証が手渡され、学生証のシールを胸元に貼りつけて入校する。
はじめに、受付横にある映像ルームで足利学校にまつわる歴史を学んでみることにした。 足利学校の始まりには諸説ある、との解説から始まる。3説ほど紹介されているが、明確な答えがないということは、学校創建当時は大したことのない教育施設であったのだろう。その状態からこの学校は影響力を強めていく。その大きな理由の一つは、戦国時代の戦法の立て方に、ここで学ぶ儒学が合っていたから、のようである。戦いでは敵への隊列の組み方、攻め方などを指揮官が決定するが、その決定の根拠が占いであった。ここで易学(占いの学問)や兵学(戦術)を修めた人たちが各地へ戻って兵隊の指揮官の右腕となっていく姿が想像できる。 しかし、戦国時代は終わりを迎える。儒学は戦いのための実学から事実上僧侶専用の学問へと出戻りしていき、学校もかつての勢いは失われていく。 近現代では戦争に科学技術を重用し、仮に占いを戦いに用いるとなれば鼻で笑われることは言うまでもない。 江戸時代以降、常に逆風にさらされていたこの学校。だが、それでもなお今に残っているということは、この学校を守ろう、この学校は希少価値あるものだ、と評価している人たちがいるからのようだ。例えば、フランシスコ=ザビエル、そして 徳川家康である。ザビエルは足利学校を「坂東の大学」などと称し知名度を向上させた。(ただ、あくまで彼は儒学の重要施設である足利学校をキリスト教布教のための超えるべき壁としてライバル視しただけ、という見方もある。)
以上、私の勝手な解釈を混ぜたが、14分の映像解説の内容であった。ただ名前が有名だからと何も知らずに来た私に学が授けられた。
「学校」と書かれた門を潜る。この中が、今で言う「キャンパス」といったところか。 そのまま中央に行くと孔子廟、右手に行くと庭園や講堂らしき建物の集合体。まずは右手から見ていくことにした。
南庭園と記された庭園。「築山泉水庭園で、大きな立石とアカマツが特徴」云々。奥には「衆寮(しゅりょう)」と呼ばれる平屋建て。学生寮ということだが、畳敷きに机一つ。現代の学生寮 よりはるかに簡素な設備である。
メインの「校舎」なる建物は靴を脱いで上がることができた。解説 看板によると、正式名称は「北条・庫裡・書院等」と書かれている。方丈は儀式用の講堂、庫裡は日常生活用、書院は校長(庠主)の書斎を意味しており、全て室内で繋がっているようだ。
庫裡の玄関から入場する前、直方体の容疑に水が溜まっている謎の容器を発見。脇にあるスコップで水を汲み、その水を中央の容器に入れるようだ。この謎の装置、近くの説明書きで意味を知る。 中央の傾いているバケツは空の時は 傾き、入れると器が起き上がる。しかし、水を入れすぎるとひっくり返り元の空の状態に戻る。水もほどほどに、何事にもほどほどがいいという教えを体現したいようだ。しかしこの考えを伝えるためとはいえ、これを作るのはなかなか難しかっただろう。真ん中にあるバケツとそれを支える鎖の調節は簡単ではないはず だ。私は何度か水を入れては器をひっくり返すことを繰り返したが、容器がひっくり返った際は必ず水は一滴残らない。ほどほどに作ってこんなものはできないだろう。
さて、建物の内部に入る。内部には建物の景観を損なわない形でいくつかの展示がなされていた。
・扁額「学校」「杏壇」 ・儒学者らしき 長老の彫刻像と背後に漢文付きの屏風 ・足利学校の歴史を文字と絵で解説したパネル
大広間ではテーブルの上に漢字練習用のプリントが積まれていた。来航した我々がここで漢字の練習をするために設けたのであろう。プリントには卒業の基準として「自学自習の精神により自分が納得したら卒業」と書かれていた。観光のためだから甘い基準にしたとも解釈できるが、学校が現役だった当時もまさに自学自習に基づき納得するまで学び卒業していったと校内の別の解説シートに書いてあった。 先ほどまで大雨が降っていた平日ということで自学自習を行う人の姿は確認できなかった。隣の部屋で再生されている、アニメキャラクターから発せられる漢文の音声だけが 室内に響き渡っていた。
方丈・庫裡の見学を終え、「杏壇」門を抜けた先にある孔子廟に行く。孔子と小野篁の木造が安置されていた。足利学校を創設した人の1人といえ、この小野篁とは誰ぞや。この像を見た時にはそう思ったのだが、最後に遺蹟図書館を訪問した際、展示物を見て この人が小倉百人一首の一人であることに気づいた。
足利学校を出る。 足利学校受付時にもらった パンフレットをもう一度見返す。「『自学自習』の精神を伝える教育の原点」という見出しが目についた。今風な表現なのはいいが、...
Read moreI’ve got to admit that this buildings site, which had been the nationally highest educational institution in Japanese academia such as Confucian ethics and Kokugaku from medieval for a long time, is not that entertaining or many things fun to watch, but is pretty elegant and very educational sightseeing spot you should visit at least once.
I admire the local people who have cherished and been making great efforts to preserve not only solemn buildings and beautiful trees, but also the spirit and significance of the school’s existence. I humbly sense that that is still making this place well...
Read moreフランシスコ・ザビエル「坂東の学院あり。日本国中最も大にして最も有名なり」。ルイス・フロイス「日本の綜合文科を有する唯一の大学」「全日本でただ一つの大学であり公開学校」当時の日本国内での足利学校の評判が高かった理由は、公開の教育機関であったという点にあろう。つまり各大名家や貴族における教育機関は、当然それぞれの内部にあったことは想像に難くないのであるが、足利学校に関してみれば「学校」の名の下に広く学徒を受け入れた点において、その特徴が顕著であったと言えるだろう。その背景には、室町将軍家足利氏の本貫地としての足利荘の特殊性があげられよう。足利学校の起源については小野篁説・国学遺制説をはじめ、藤姓足利氏説、源氏足利氏説など諸説があるが、少なくとも鎌倉期の源姓足利氏にかかわる教育機関として発足したとして差し支えないと思われる。足利市の氏寺である鑁阿寺(ばんなじ)所蔵の1249年正月7日の定書によれば、足利義兼の意向をふまえ、足利義氏の奨励のもと、講書始が行われ『大日経疏』と『周易注疏』の二書が僧侶によって講ぜられている。
本格的に整備されたのは関東管領上杉憲実が1432年、足利荘の管理を委ねられてからで同年閏11月に『五経疎本』若干の巻を学舎に安置。・・・憲実は鎌倉円覚寺在住の碩学の禅僧である快元を招聘し、足利学校の庠主(しょうしゅ)として迎えた。改元は易学に造詣深く、以後足利学校は易学の伝統を継承することになった。憲実は・・・儒学以外の学問を禁止している。歴代の庠主や入学者のほとんどが僧侶であったにも関わらず、仏教関係の蔵書などが少ないのも、当初の憲実の学規三条による儒学を柱とする学風が根付いていたからであろう。また戦国期には各地の戦国大名が易学(戦陣での占い)や兵学などをおさめた人材を求める傾向にあったことが、足利学校の隆盛をみる背景になったと考えられるだろう。『栃木県の歴史』137−138頁
1530年代、2度の火災によって講堂や書院など多くの建物が焼失するも北条氏政が援助し再興。兵学を中心に教えていたこともあり、戦国大名から重宝されたものの、その実態は学校で学んだ僧侶などの知識人が政治のブレーンとして戦国大名に仕えたことで結果的にそう見えてしまったらしい。1590年に北条氏が滅亡すると足利学校も衰退し、蔵書は豊臣秀次が持ち帰り、校長も上洛。翌年には閉校。江戸時代に入ると足利周辺に入部した領主らによってまた再興。『あなたの知らない栃木県の歴史』78ー79頁
とのことで、日本全国的にも重要な足利学校ですが、足利市や栃木県の観光政策の一環なのか、だいぶ復元されて整備されており、国宝を保持する隣の鑁阿寺ともども、見所満点の文化遺産です。
今でもちゃんと学校ならではの図書館などがあって興...
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