百畳敷の桟敷席での毎日3回、「江差追分」を実演や江差追分の歴史をたどる数多くの貴重な資料を集めた資料展示室などがある
📖江差追分 前唄 国をはなれて 蝦夷地が島へヤンサノェー/いくよねざめの 波まくら/朝なタなに聞こゆるものはネ~/友呼ぶかもめと 波の音 本唄 かもめの なく音に ふと目をさまし/あれが蝦夷地の 山かいな 後唄 沖でかもめの なく声聞けばネ~/船乗り稼業は やめられぬ 前唄 松前江差の 津花の浜で ヤンサノェー/すいた同志の なき別れ/ついていく気は やまやまなれどネ~/女通さぬ 場所がある 本唄 忍路高島 およびもないが/せめて歌棄 磯谷まで 後唄 蝦夷地海路の おかもい様はネ~/なぜに女の 足とめる 信濃国追分宿の馬子唄が、北前船の船頭たちによって伝わったものと、越後松坂くずしが謙良節として唄われていたものが融合されたとされている。今の江差追分の原形として大成させたのは、寛永年間,南部 国の出身で、謙良節の名手であった座頭の佐之市によるものであると云われている。その後、歌い継がれる間に幾多の変遷を経て、浜小屋節や新地節など多くの流派が発生した。1908年(明治41年)に、追分節の統一を図る動きが生まれ、追分節正調研究会が発足し、各派の師匠たちが論議を重ねた結果、正調追分節の基礎が固まった
📖義経伝説 1189年(文治5)年の秋、奥州を逃れた義経主従は、一葉の軽舟に身を托して、はるばる蝦夷地に渡ってきた。積丹半島の辺りに上陸した義経は、まず長老のシタカベを従え、しばらく彼の地に滞在した。やがて、シタカベの娘のフミキ姫は、許婚者のある身ながらひそかに義経を恋い慕うようになった。しかし、大望のある身の義経は、婦女の情におぼれることなく、ある日ひそかに舟を出してさらに奥地をめざした。狂気のように後を追うフミキ姫を、父のシタカベは邪恋に狂う女として神威岬の巌頭で斬り捨てた。後に、かつての許婚者がその場を訪れて、赤い花の咲いた美しい草を見つけ、草笛を造って吹いてみると、自ら一曲の悲痛な調べを奏でた。それが、今日の江差追分の始まりである。より古い形のものは、話の後段に至って「巌頭に立ったアイヌの美姫(一説にチャレンカ)が、沖を行く義経の舟を見て嫉妬のあまり、この後、和人の舟が婦女を載せて沖を通ったならば、必ずこれを覆没ささると、呪いの言葉を遺して身を投げた」という風になっている
📖忍路高島 元禄初期以来と伝えられる神威岬の女人通行禁制は、不幸にして迷信深い水主(かこ)達によって幕末の頃まで堅く守られ、後世、幾多の愛別離苦の悲劇を生むもとになった。では、なぜこれほど長い間、和人が奥場所へ定住することをさまたげる、このような禁制が行われたのであろうか。そこには松前地の繁栄のみを守ろうとし、奥地における支配の内情が外部にもれることを恐れた松前藩のこそくな政策があった。そのような施政の下におかれ、過酷な労働を余儀なくされた人々こそ災難であったといわなければならない。つまり、大勢の出稼ぎ漁夫やその家族、小前の百姓達、旅芸人や花街の女といったような下積みの人々である。江差追分は、何よりも、まず、そのような人々の胸奥からほとばしり出た魂の叫びであった。それにしても、一つの人を感動させるに足るものが、世に生まれ出てくるためには、何と大きな犠牲を払わなければならないものか、それら無数の先祖の気持ちを思うにつけ暗然とした気持ちにならざるを得ない。「忍路高島」が唄われ始めた時期については、きわめておぼろげながら推定する手掛かりが全くないわけではない。つまり、この文句の原型をたどって行くと、天明年間に幕閣で権勢をふるった老中の田沼意次にちなんだ「田沼様には及びもないが、せめてなりたや公方様」という当時の江戸での流行り唄に行きつくからである。この唄はまもなく地方に移って、越後の新発田あたりでは「新発田五万石およびもないが、せめてなりたやとのさまに」(松坂節)、酒田では「本間様にはおよびもないが、せめてなりたやとのさまに」(酒田節)という風に替え唄として唄われた。とすれば当然、その延長上に、北海道の「忍路高島」も位置すると考えてよいわけである。ところで、唄が流行するまでの経緯はどうであれ、単なる羨望の気持ちを表した上記のような唄は、人の心をうつという点で「忍路高島」のもつ迫力には、遠く及ばないのではないだろうか。所詮、民謡というものは、その時々の人の心の在り所によって、いかようにもその価値、内容が変わり得るものである。この点に関し、風俗画報所載の関係記事の筆者である山下重民氏は、同誌の中で、「およそ俚謡の人を感動せしむるはその真率なるにあり。そのことの実際より出るに因るなり。この追分の一曲、以って証...
Read more2025·R7.8.9 姥神大神宮渡御祭の初日、朝イチでの初訪問です。江差追分の保存と振興を目的として1982·S57.4月に開館、この会館では"伝習演示室"や"追分資料室","追分道場"が設置されています("江差追分"自体は1977·S52.4.13に北海道指定無形民俗文化財として指定されています)。開館時間は917時,入館料はこの"江差追分会館"と左奥別棟(でも繋がっている)の"江差山車会館"がセットで500円,410月は無休で休館日は113月の月曜と祝翌日 それに年末年始 です。
410月までは毎日、江差追分や地元北海道民謡の指導型の実演が1日3回(11時,13時,15時)行われています。
この日ざっと見学を終えて、図々しくも受付の方に山車のことや渡御祭のことを伺うと、ご親切にお祭りのスケジュールや行列·巡行コース図をプリントして頂き、3日間のお祭り期間中首っ引きで参考とさせてもらいました。本当にありがとうございました😊🙏。加えて、「この時間なら、各山車の 魂入れ が始まる頃ですよ」とも教えてもらって、更には「魂入れ見てから、後で改めて来てもらってもかまわない」と再入館OKのありがたいお話しでした。
直ぐ様姥神大神宮の鳥居前に移動して山車の"魂入れ"の様子を好位置で見学、再度ゆっくり見学させてもらいました。
追分会館では浅沼師匠の生江差追分も聴けたので良かったです(聞こえたら恥ずかしいので、喉で息だけ吐いてみましたが、ムリです。素人のそば屋です、ぶちぶちです、続きません。前唄·本唄·後唄があるのも知りませんでした)。合いの手の"ソーイソイ"の女性の方、受付にもいらした尺八の若手の方、お名前は失念しましたが、印象的な場面を見られて本当に良かったです。
館内も涼しくて大助かりでした。
(泊まる所がなく、鴎島駐車場...
ひとつの建物に江差追分会館と江差山車会館が同居しています。 江差追分会館は江差追分に関心がないと楽しめません。江差山車会館のほうですが、「江差の五月は江戸にもない」と謳われたほどの町ですから、秩父や高山なんざ目じゃないぜ的な、絢爛豪華な山車を期待していたのですが、わりと普通です。迫力も装飾も目を見張るほどのものではありません。武田信玄や楠木正成と言った、江差とは縁もゆかりもない武将の像が山車に鎮座しているのにも違和感しか感じません。それでも通りを引き回されていれば勇壮なのでしょうが、建物内に安置されている様はなんともきまりが悪く、舞台裏でマスクをとって休憩しているヒーローショーのヒーローのようです。 江差まで来たなら外せないスポットだとはおもいますが、ここを見るために江差まで来るのは、どこでもドアが開発されてからにし...
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