平安時代末期の保元の乱は天皇家の勢力争いと摂関家の跡目争いが重なり、実行部隊である武士階級の源氏と平家を絡めて、京洛で戦いが起きました。この戦では、有名な源義朝(頼朝・義経の父)、源為義(頼朝・義経の祖父)、源為朝(義朝の弟)、平清盛などが敵味方に分かれ参戦しました。首謀者のお一人崇徳天皇は、鳥羽上皇の第一皇子でしたが、実は、母待賢門院(西行も憧れた絶世の美女)と祖父・白河法皇の不義の子であり、父親からは「叔父子」と呼ばれ疎まれました。(これは残念ながら風評ではなく、妃の懐妊は国家の大事だったため、月の物の記録が残っており、また法皇との密会の日々の記録もあり、明らかに日が合わないと京大の平安研究の学者の著書にもあります 母待賢門院は育ての養親である白河法皇と独特の深い愛情関係があり…)後に生まれた実子、弟皇子の方を父天皇は愛されます。このように、そもそもの不幸・不和の原因は崇徳天皇のせいではなかったのですが、御本人の勝気な性格もあり、崇徳天皇はフラストレーションがたまり、我が子を皇太子にしたいという望みもブロックされ、ついにキレてしまわれます。ちなみに、父天皇の寵愛はその後母を離れ、別の妃との間に生まれた皇子(のちの近衛天皇)が皇太子に立ちます。保元の乱の武力衝突の末、迅速に夜討をかけてきた敵方に敗北し、仁和寺(実の弟が出家し門跡に)に逃げ込もうとされますが、最後に頼りにしたその実弟・法親王門跡にも入寺を拒否されて、門で立ち往生。もう行くところはありません。(一夫多妻制のこの時代、実の兄弟は最後の砦でした。)その後、負け方として罪が確定、讃岐の国(香川県)に流され、不遇のうちに崩御されます。お亡くなりになる寸前、血書したお経をせめて京都のお寺に納めたい、と送ったのを”呪いだ!縁起悪い!”と朝廷側に拒否・返送されたのがガチギレの原因となり、激怒した崇徳院は舌をかみ切り、「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と魔王宣言。間もなく崩御されたとか。このお怒りは近くの縁結び・縁切りで有名な安井の宮にも関係します。ところで、こちらの御廟は、崇徳天皇に仕えた阿波内侍(伝・信西の娘)が住んだ屋敷の跡と伝わり、彼女は藤の花の好きな方で、鎌足にもゆかりの藤棚が美しい場所でした。形見の崇徳天皇の遺髪を埋めたともいわれます。讃岐には別の女性が供奉しました。残された彼女は出家してこの辺りに住んだようです。私が子供の頃は、お寺?のような古い大きな屋根の建物がまだ石碑の向こうに残っており、御廟そのものも古めかしく、うっそうと緑が多く今よりずっと広かったです。明治くらいには内侍ゆかりの五輪の塔もまだあったようです。今は、塀に囲まれすごく狭くなりましたが、大切に綺麗に整備されています。崇徳院御詠「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の...
Read more崇徳院のように努力を踏みにじられるような理不尽な辛さに悩まされている人を助けてくださる。そう思います。本当に崇徳院を敬愛する人が参拝していると思います。
配流先では戦死者の供養と反省の証として写経を送り返されるなどにより怨霊となった伝説がある崇徳院ですが、一方では和歌・管絃の才覚に優れ、王朝文化の進展に大きく貢献された方です。
崇徳院の残した歌は、崇徳院が愛した女性の名は阿波内侍を想い、その気持ちを込めた美しいけれど悲しい恋の歌です。
意味を理解した時には涙しました。そして、この歌を読む都度に涙が出ます。今は離れていても、愛する女性と再会して、幸せに過ごしたい、そう願った気持ちを込めた歌です。贅沢な事など一切ない世間的に本当に普通の幸せを願った歌です。
愛する女性と安穏とした日々を過ごす事すら許されない人生を過ごさなければならないとしたら、どんなに辛いでしょうか。
このような美しい歌を残した人物が怨霊と恐れられる事ほどの悲劇は他にないでしょう。
誰しも辛い仕打ちを受ければ、笑って許す事などできないはずです。何をされても笑って許せるという事は、きっと仏様でもできません。辛い事をされたら悔しい、楽しい事をされたら嬉しい。それは人として当然の事です。もし、怨霊伝説という噂から、単純に怖いと騒ぐ人には、そうした思いやりを持ってくだされば、もっとやさしい世の中になると思います。
本当に恐ろしいのは怨霊と呼ばれるまで相手を追い詰めた心ない仕打ちです。
参拝する時はタクシー業務の合間にお参りします。参拝すると、仕事でのモヤモヤした気持ちが消えてしまいます。タクシーは社会的な偏見の強い傾向にある職業だと聞きますが、女性差別も厳しい業界だと思います。ですが、他の職業よりも多くの知識と技術がなければ、大変難しい職業でもあります。そして、多くの人が真面目に仕事をしてます。
崇徳院とは比べられないかもしれませんが、努力を認められない辛さを理解してくださるみたいで、とても嬉しいです。やるせない悲しみに涙す...
Read more瀬をはやみ 岩(いは)にせかるる 滝川(たきがは)の われても末(すゑ)に あはむとぞ思ふ 崇徳院(すとくいん) [歌意] 浅瀬の流れが速いので、岩に一度はせき止められてしまう滝川の水がふたつに分かれてものちに再び合流するように、恋しい人に別れても後日必ず逢おうと思う
[御祭神 崇徳院] 崇徳院は、第七十五代...
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