20年振りに行って来ました。 以前行った時の面影は無く、荒廃した姿に唖然としました。 隣接する家屋が無くなったのか、以前よりかなり広い印象を受けました。 以前は南側の路地から覗ける狭い範囲が梅雨の井の跡地でしたから。 20年前行った時にはあった、朱塗りの祠のあった辺りは倒木が積み重ねられていて祠は無くなっており、何の為に建てたのかと思ってしまいます。 まぁ20年前の時点で嵌め込まれていたガラスが割れて散乱し、少し傾いていましたから。 西側に井戸がありましたが、これが復元された「梅雨の井」?って感じです。と言うか、本来のそれは反対側だったはず。 地域で管理されているわけでもなく、放置されていてこれが歴史的価値のある場所か?と思います。 もっともバブル当時既にここは聚楽第の堀の中だと分かっていましたから、歴史的文化的価値など無いのですけどね。 まぁ所有権の問題で誰も手が出せないだけかもしれませんが、今や単なる荒廃極まった空き地です。 あの時マンション建設に反対した地域住民は責任を持って管理すべきだと思います。 無責任すぎます。これならマンションが建ったほうがマシだった。
【2021年6月21日追記】 昭和50年代の住宅地図を閲覧する機会があり、最新の住宅地図と見比べた所、私が最初に訪れた場所は「梅雨の井跡」となってはいましたが、実際は「八雲神社跡」でした。当時大宮通下長者町上ル西入ルの路地から北へ入ったのですが、そこにあった狭い更地が元八雲神社とその周囲の路地の跡でした。
当時「梅雨の井」はその北側の民家の敷地内にあったと言われていましたので、復元された「梅雨の井」とは対角線上に反対の位置にある事になります。 その民家にあった「梅雨の井」は崩落したとされ、その崩落前の写真が残っていますが、確かな事はわかりません。 現在は周囲の民家も多くが取り壊されていますが、八雲神社跡の北東に井戸が残っていますので、もしかしたらそれが(修復された)「梅雨の井」なのかもしれません。
最もこの地の少し南にかつて豊国神社の御旅所があり、そこにも「梅雨の井」がありました。写真に写る井戸はもしかしたらこの御旅所のそれかもしれません。写っている井戸と残っている井戸の石組みが違いますから。
またここの西側、松屋町通りを挟んだ場所(松屋町通下長者町上ル西入ル北へ上ル)にそれがあったとの話もあります。
【2022年8月25日追記】 復元された梅雨の井についてですが、復元されたのでは無いと考えています。 と言いますのもその場所には地域の共同井戸が以前から有りましたから。 その井戸を「梅雨の井」としているのでは?と自分は考えます。 だいいち時代の合わない手押しの井戸なのに「復元」とは言葉の意味からして変です。
今や立ち退きに反対している方も梅雨の井は持ち出さず、かつてはあれほどそこかしこに貼られていたアピールすら一つも有りません。 もはや梅雨の井は何の価値も無いのでしょう。 なんせ旧八雲神社の水楢が斬り倒されたので、その代わりに持ち出しただけですから。 梅雨の井が本当はどこに有ったのか判らず、しかも秀吉の時代には存在していなかった井戸ですから、もう役割は...
Read more聚楽第・・・(じゅらくだい) 豊臣秀吉が天正15年(1587年、安土桃山時代)京都に造営した華麗壮大な城郭風の邸宅。東西600メートル、南北700メートルという二条城より一回り大きい規模で周囲に堀をめぐらします。
その聚楽第の濠跡で大宮下長者町の鍵状の辻から北に少し歩くとそれはあります。
民家に囲まれ、空き地となり、草は映え放題。民家に囲まれ、空き地となり、草は映え放題。草むらの奥に進むと井戸があります。
この井戸は、豊臣秀吉が聚楽第を築いた頃から、聚楽第内の東南隅にあったものだといいます。梅雨明け7日前から水が溢れ出し、梅雨明けと共に戻るところから、この「梅雨の井」という名が付いたと言われ、茶の間に最適の水だと秀吉のお気に入りだったらしいです。 『豊臣秀吉造営するところの聚楽第の内にありし井戸なりと遣ふ。此地はもと聚楽第舞部の東南隅に近き処にあたる』
梅雨の井跡へはJR京都駅、市バスB2乗場から50系統で「大宮中立売」下車、徒歩3分くらいです。
忘れ去られつつもその姿を現在に残し誰かに語り継がれてゆく古き時代の跡。 そこには歴...
Read more豊臣秀吉公が聚楽第「1585年」を築いたころから聚楽第内の東南隅にあったものだという。
梅雨明け7日前から水が溢れ出し、梅雨明けと共に戻るところから、この名が付いたといわれ、茶の湯に最適の水だと秀吉の気に入りだったようである。 駒札によれば、 『豊臣秀吉造営するところの聚楽第の内にありし井戸なりと遣ふ。此地はもと聚楽第内部の東南隅に近き処にあたる。』
近くには、御所から続く出水通り沿いにある井戸です。出水通りは雨がふったら、御所の前の烏丸通が冠水したと言うことか、出水通りの名前がついた場所です。
聚楽第の濠跡で大宮下長者町の鍵状の辻から北に少し歩くと、民家の壁に手作りの「秀吉から四百年つゆの井跡」と書かれた小さな看板があり、その横の細い道を西に、すぐ右に曲がると、空地の片隅に「梅雨の井」の名残がある。
聚楽第は竣工から8年で潰されましたので、遺構は、かなり少なく、西本願寺の飛雲閣、大徳 寺の唐門とこの...
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