駒札: 瑞泉寺(ずいせんじ) 慈舟山(じしゅうざん)と号し、浄土宗西山禅林寺派に属する。 豊臣秀吉の甥、豊臣秀次一族の菩提を弔うために建立された寺である。 秀次は、秀吉の養子となり、関白の位を継いでいたが、秀吉に嫡男秀頼が生まれてからは、次第に疎んぜられ、文禄四年(1595)七月、高野山において自害させられた。 次いで八月秀次の幼時や妻妾たち三十九人が三条大橋西畔の河原で死刑に処せられた。遺骸はその場に埋葬され、塚が築かれ石塔が建てられていたが、その後の鴨川の氾濫などにより次第に荒廃した。慶長十六年(1611)、角倉了以が高瀬川の開削中にこの墓石を発掘して、墓域を再建するとともに、その地に堂宇を建立した。これが東寺の起こりで、僧桂叔(けいしゅく)開基とし、寺号は、秀次の法号、瑞泉寺殿を取って瑞泉寺と名付けられた。本堂には本尊阿弥陀如来像が安置され、寺宝として秀次及び妻妾らの辞世の和歌を蔵している。また、境内には秀次の墓及び幼児・妻妾や殉死した家臣らを弔う四十九柱の五輪塔がある。
京都市 Piece tag: Zuisenji Temple It is called Jishuzan and belongs to the Jodo sect Nishiyama Zenrinji school. This temple was built to mourn the bodhi of the Toyotomi Hidetsugu clan, the nephew of Toyotomi Hideyoshi. Hidetsugu was adopted by Hideyoshi and succeeded to the rank of Kampaku, but after Hideyori was born to Hideyoshi, he was gradually estranged and was made to commit himself on Mt. Koya in July 1595. Then, Hidetsugu August's childhood and thirty-nine of his wives were sentenced to death on the riverbank on the west side of Sanjo Ohashi. The corpse was buried there, a mound was built and a stone pagoda was built, but it was gradually devastated by the subsequent flooding of the Kamogawa River. In 1611, Suminokura Ryoi excavated this tombstone during the excavation of the Takase River, rebuilt the tomb area, and built Dou there. This was the origin of Toji Temple, and it was the foundation of the monk Keishuku, and the temple name was named Zuisenji Temple after the Buddhist name of Shuji, Zuisenji Temple. The statue of Amida Nyorai, the principal idol, is enshrined in the main hall, and the poems of the death poems of Shuji and his wife are stored as temple treasures. In addition, there is a tomb of Shuji and a forty-nine pillar five-wheeled tower in the precincts to mourn the infants, wives and vassals who...
Read more三条大橋から少し入ったところにすぐあります。豊臣秀吉の不興を買い切腹させられた豊臣秀次一族の菩提を弔うために建てられたお寺です。幻の”辻が花”の裂(きれ)が残るお寺としても有名です。辻が花とは、複雑な色柄の染めの技法のことで、メインの絞り染めを引き立たせるため描き絵・摺り箔・刺繍などを併用しながら、複雑な縫い締め搾り・竹皮絞りなど高度な技法を駆使した、桃山時代の華ともいえる絞り染めの最高傑作です。残された資料がほとんどなく、現在では再現が難しい、というか当時のレベルのものはもうできないといわれています。江戸時代に入り、段々と友禅染にとって代わられて消滅しました。こちらのお寺に残るのは、関白秀次の妻妾が生前着ていた小袖の端切れですので、桃山時代でも一流の細工の辻が花染めを所蔵します。特別公開の時などに拝見できます。その他、秀次の正室である一の台(秀吉を関白にするため朝廷工作に奔走した公卿、菊亭晴季の姫)の緋の袴も現存します。秀次と一緒に処刑された妻妾の辞世の句をひとつずつ掛け軸に仕立ててあるのですが、その表装の布部分に遺品の辻が花小袖が使われています。私が拝見した限り、同じ柄(ひとつの小袖)を数人の掛け軸に使ってありました。辞世の句を書かれた方の遺品の小袖がその方御本人の軸にそれぞれ対応しているのではなさそうでした。秀次が過ごした豪華な聚楽第も秀吉に破却されましたので、その際そういった贅沢品もあっさり毀損され棄てられ、数残っていないのだと思います。当時は三条河原には大きな中洲があり、現在のこのお寺の位置にあたります。河原町通までが広く鴨川の領域でした。秀次一族は、女子供39人を含め処刑後、大きく掘られた穴に次々放り込まれ、「畜生塚」という名前を付けられて、その上に秀次の首を石櫃に置き、土を持っただけの粗末な状態のまま、秀吉を憚り弔う人も無く、三条河原に放置されていたそうです。高瀬川の開墾をした京の豪商角倉了以は、元々秀吉の時代からの豪商で、角倉家の家業はもともと医師でした。後陽成天皇の脈を取ったりしたセレブ専門の医師で、豊臣家にも親しく出入りし秀次とも昵懇でした。塚の有様を見て心を痛め、時がたつのを待ち、江戸時代に入ってから、徳川幕府に「豊臣は完全に滅び、もう今更天下を揺るがす恐れも無く、ほとぼりはさめたと思うので、そろそろ気の毒な秀次公の菩提を弔いたい」と自ら申し出、許可を得てこのお寺を建てました。亡き人々の人数分の立派なお墓が秀次公の墓を取り巻くように建てられています。処刑当時の張りつめた空気感が残るような墓所です。人の世のならいとして、みんな権力のあるうちはちやほやへつらってきますが、とっくに儚く滅びた家の、しかも現在の天下人徳川の最大の敵方であった豊臣家、昔の旧主ともいえる一族を波風立たぬタイミングをみて私財で改葬し永代に祀りたい、とはさすが戦国時代を生き抜いた京の豪商、なかなかに大変な男気と度量の持ち主と思います。ちなみに、家康の命からがらの伊賀越えを支援した茶屋四郎次郎など他の京の二豪商は徳川の恩顧を得て発展しますが、角倉家はその前から既に立派な豪商でした。その角倉了以御夫婦...
Read more京都三条大橋のたもとにひっそりと佇むお寺です。
門は木屋町の繁華街通り沿いの、 三条通りから南に下ってすぐの場所にあります。 ここは江戸時代のはじめまで、広い鴨川の河原の中州だった場所 (当時鴨の河原は、今の河原町くらいまで広かったようです)。
この場所で、今から400年前、悲しい事件が起こりました。 瑞泉寺はそのことを伝えとどめるために創建されたお寺です。
豊臣秀吉公13期法要のために、方広寺の再建にて、角倉了以が高瀬川を掘削し、これは、方広寺を造る材木などを船で運搬する為つくられています。角倉了以が慶長16年に瑞泉寺を創建しています。
がんこ二条店前に鴨川から引入れ口があり、高瀬川はここから始まりです。二条から五条にかけて7つの船入り(荷物の積みおろしをするための船だまり)があり、川筋に並んだ問屋は繁栄をきわめたといわれています。また、水量が少ない時には、川を板で遮る閘門跡ものこってます。木屋町は川沿いなあった木材商があった名残です。
秀頼公が誕生するや、関白になった秀次公は、辻斬りをやったりしてウワサされるようになり、殺生関白といわれていました。秀吉公は、秀頼公のため、将来の憂いを心配し、殺害したといわれています。瑞泉寺創立の16年前の1595年7月15日に関白豊臣秀次公が秀吉公の命令によって、高野山金剛峯寺の柳の間で切腹し、8月2日に、秀次公の妻子30余名の一族が当時三条河原の中洲であったこの場所で処刑されました。刑場の脇に掘られた大穴に次々に放り込まれ、やがてその上に大きな塚が築かれ、頂上には、秀次公の首を入れた「石びつ」を据えて、三条大橋を往来する人々への見せしめにしています。
角倉了以の実弟は、医師でありましたが、豊臣秀次公の家臣になっています。その関係のなか、角倉了以が豊臣秀次公が眠る瑞泉寺を創建したと、住職は考えていらっしゃるとの事です。
豊臣秀次公の首は、ここ瑞泉寺にありますが、胴体は、高野山光臺院の裏山に葬られ、その供養塔は「胴塚(どうづか)」と呼ばれます。
阪神大震災のとき、秀次公の墓🪦が倒れたそうですが、なかには、首を納め、動かないように、網の籠がはいっていたそうです...
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