松本を代表する観光地の一つとなっている松本城公園。国宝に指定されている松本城天守閣の北に、城と城下町を見守り続けてきた神社があります。 現在では『松本神社』となっていますが、暘谷大神社、今宮八幡宮、片宮八幡宮、共武大神社、淑慎大神社を祀ることから、元々は「五社」と呼ばれていました。いずれも、江戸時代初期の1617年(元和3年)から1633年(寛永10年)、江戸時代中期の1726年(享保11年)から明治時代初めの1871年(明治4年)にかけての松本藩主であった戸田松平家にゆかりのある人々です。 松本神社の始まりは1636年(寛永13年)。戸田松平家三代当主で、播磨国明石藩(兵庫県明石市)の藩主であった松平光重こと戸田光重(とだ みつしげ 1622~1668)によって、「暘谷霊社(暘谷大明神)」として明石城内に創建されました。暘谷霊社に祀られているのは松平永兼といって、光重の祖父にあたる松平康長の長男です。 現在の場所に移ってきたのは江戸時代中期。志摩国鳥羽藩(三重県の志摩半島東端)から信濃国松本藩へ転封となり、1726年(享保11年)から1732年(享保17年)までの藩主であった松平光慈こと戸田光慈(とだ みつちか 1712~1732)により、松本城天守閣の北へ遷座(せんざ)しました。 1797年(寛政9年)、松平光行こと戸田光行(とだ みつゆき 1769~1840)によって、戸田家中興の祖と伝えられる戸田宗光を祀る今宮八幡宮、義理の親族となった一色政照の従兄弟にあたる義遠を祀る片宮八幡宮を合祀。1831年(天保2年)、松平光年こと戸田光年(とだ みつつら 1781~1837)によって、戸田松平家初代当主の松平康長を祀る共武大神社、康長の正室で、永兼の母でもある松姫を祀る淑慎大神社を合祀し、この時から「五社」と呼ばれるようになりました。 1914年(大正3年)、松本城の開祖と伝えられる島立貞永(しまだち さだなが)を祀る松本城鎮守社を起源とする「若宮八幡宮」が、天守閣の北西から五社の西隣へ遷座しました。その後、五社と若宮八幡宮は1953年(昭和28年)に合祀され、『松本神社』となって現在に至っています。
松本神社を訪ねたのは、真夏のような厳しい残暑が続く8月末。こちらの神社を訪ねるのは初めてなので、若宮八幡宮→五社の順に参拝をして見て回りました。境内は半ば駐車場のような状態になっていたり、境内の西門の土台部分に損傷があったりするものの、境内の建物には千社札が貼られていて、五社の四隅にある石灯籠、正面門の左右にある永代常夜燈など、パワースポットという言葉が使われる前の時代からあつく信仰されていたことがよく分かる神社です。 訪ねた日の松本の最高気温は33.5℃。地面からの照り返しが強い午後だったので、御神木の木陰に入った時の涼しさ、松本神社前交差点の近くにある井戸の冷たい湧き水など、ちょっとした癒しの空間になっているところも印象的でした。 松本城とともに、ぜひ訪ねていただきたい神社です。
◆画像は2023年8月28日に撮影したものです。五社の西隣にある若宮八幡宮については、若宮八幡宮のクチコミでまとめてあります。また、戸田松平家の姓は江戸時代末まで"松平"ですが、結城秀康の三男で、1633年(寛永10年)~1638年(寛永15年)までの松本藩主であった松平直政のように、松平の姓を許された一族が複数いるので、本来の姓である"戸田"を併記しています。
【暘谷大神社】 松平孫六郎永兼 (まつだいら まごろくろう ながかね) 松平永兼(1580~1619)は、安土桃山時代から江戸時代初めの戸田松平家の世嗣。松平康長(戸田康長)、康長の正室の松姫との間に長男として生まれた。幼名は虎松。徳川家康は母方の伯父にあたることから、世嗣として松平の姓を許され、徳川家からも厚遇されたものの、病弱の身ゆえに父親の後を継ぐことができず、39歳で世を去った。戸田松平家が松本藩から明石藩へ移った後、明石城内で起きた怨霊騒ぎの原因は永兼の無念とされ、暘谷神として城内に祀られた。
【今宮八幡宮】 戸田弾正左衛門尉宗光 (とだ だんじょうさえもんのじょう むねみつ) 戸田家中興の祖と伝えられる戸田宗光(1439?~1508)は、室町時代中期から戦国時代初期の武将。「六星」を家紋とする三河戸田家は戸田松平家の祖先にあたり、源氏の流れをくむ森頼定の子・戸田信義を始まりとする一族と伝えられる(※)。十代当主である宗光は室町幕府の政所(まんどころ)の執事(長官)であった伊勢貞親(いせ さだちか)に仕え、当時の三河国の守護であった細川成之(ほそかわ しげゆき)の要請で、領内で起きた一揆の鎮圧などにあたっている。応仁・文明の乱では、松平家(後の徳川家)とともに東軍に属し、細川成之に代わって三河国を支配した一色家との争いで勢力を拡大。三河国守護代であった一色政照と養子縁組をした後、政照の隠居と同時に三河湾から渥美半島一帯を支配。現在は『田原城址』(愛知県田原市)となっている「田原城」、現在は『大口公園』(愛知県豊橋市)となっている「二連木城」を築いた。戸田家の菩提寺で、大口公園の南南西にある『仙壽山 全久院』と、長野県松本市の深志神社の北にある『青龍山 全久院』は、晩年に出家した宗光の入道名が由来となっている。 2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』で、竹千代(後の徳川家康)を護衛した“戸田宗光"は三河戸田家の十三代当主・戸田弾正小弼康光(とだ だんじょうしょうひつ やすみつ)で、康光の次男の家系が戸田松平家である。 ※宗光の父・実光は正親町三条家からの養子と伝えられ、血筋としては藤原北家に近いとする説がある。
【片宮八幡宮】 一色兵部少輔義遠 (いっしき ひょうぶのしょう よしとお) 一色義遠(生没年不明)は室町時代から戦国時代にかけての武将。一色家は源義国(みなもと の よしくに)を起源とする足利将軍家一門の大名で、室町幕府の軍事や京の都の警備を担当する侍所の長官職を担った「四職」の一つ。義遠は愛知県西部の知多半島辺りにあった尾張知多郡の守護大名で、後に義貫(よしつら)と名乗った一色義範(いっしき よしのり 1400~1440)の子であり、丹後一色家の一族と伝えられている(政照は式部一色家)。 応仁・文明の乱では、義範の子で丹後国(京都府北部と兵庫県北部の県境付近)の守護職であった義直(よしなお)とともに西軍を支持。東軍を支持した第八代将軍・足利義政によって知多郡の領土と守護職を失うものの、隣国の三河国へ侵攻し、三河国の守護であった細川成之を追い落として支配下に置いた。応仁・文明の乱の後、三河国を放棄して丹後国へ移った丹後一色家は、応仁・文明の乱で因縁のあった細川家や若狭国(福井県西部)を領地とした若狭武田家などの一族と激しい対立が続き、天正10年(1582年)に滅亡したと伝えられている。
【共武大神社】 松平丹波守康長 (まつだいら たんばのかみ やすなが) 1617年から1632年までの松本藩主である松平康長こと戸田康長(1562~1633)は、戦国時代後期の武将および江戸時代初期の大名。二連木城主であった戸田宣光の次男・忠重の長男で、幼名は虎千代。通称は孫六郎。主君の徳川家康は、父親の死によってわずか6歳で三河戸田家の十六代当主となった虎千代に特に目をかけていて、元服の時に家康から一字を賜った。また、家康の父親違いの妹・松姫を正室に迎え、家康の義理の弟になったことから、家臣の中で初めて松平の姓と三つ葉葵の紋を賜り、戸田松平家初代当主・松平康長となった。徳川方の武将としては、1581年(天正9年)の第二次高天神城の戦いで初陣を飾り、小牧・長久手の戦い、小田原攻め、関ヶ原の戦いに関連して発生した大垣城の戦いなどに参戦。譜代大名としては、江戸幕府の二代将軍秀忠、三代将軍家光にも仕え、家光の守役として厚く信頼された。晩年は家臣たちと分け隔てなく付き合いをもち、家光から「伊達の親父殿」と慕われた伊達正宗とも親交があった。享年七十一。墓所は「丹波塚」と呼ばれ、長野県松本県ケ丘高校の北の『戸田家廟園』にある。
【淑慎大神社】 松平丹波守康長室・徳川松姫※ 戸田康長の正室である松姫(まつひめ 1565~1588)は戦国時代の武将・久松俊勝(ひさまつ としかつ 1526~1587)の娘。松姫の母である於大(1528~1602)は徳川家康の母親でもあり、家康は父親違いの兄にあたる。5歳の時、わずか6歳で家を継いだ虎千代こと康長の義理の妹となり、14歳で康長に嫁いだ。その後、長男の永兼、長女の諷を出産したが、24歳の若さでこの世を去り、『仙壽山 全久院』に墓所があると伝えられる。 長女は戸田松平家の遠縁である戸田氏鉄(とだ...
Read more松本神社(まつもとじんじゃ)は、長野県松本市丸の内に位置する神社で、国宝松本城の北隣に鎮座しています。 地元では、祀られている神様の数から「ごしゃ(五社)」の愛称で親しまれてきました。 松本神社の歴史と御祭神 松本神社の歴史は、松本藩主であった戸田氏(戸田松平家)と深く関わっています。 創建: 寛永13年(1636年)、松本藩主・戸田光重が、伯父である松平永兼(松平康長と松姫の子)を祀るために明石城内に「新宮」という社を設けたのが始まりとされています。 移転と合祀: 戸田氏が享保11年(1726年)に松本に再入部した際に、この社が松本に移されました。その後、時代を経て、以下の神々が合祀され、「五社」と呼ばれるようになりました。 松平康長(まつだいら やすなが): 戸田氏の初代大名。 松平永兼(まつだいら ながかね): 康長と松姫の子で、若くして亡くなった。 一色義遠(いっしき よしとお): 戸田氏の遠祖。 戸田宗光(とだ むねみつ): 戸田氏の先祖。 松姫(まつひめ): 松平康長の正室で、徳川家康の娘(または養女)。悲劇的な伝承も残されています。 現在の名称へ: 昭和28年(1953年)に、松本城の前身である深志城の築城者とされる島立貞永(しまだて さだなが)を祀る「若宮八幡宮」を合祀し、現在の「松本神社」に改称されました。 このように、松本神社は松本城主ゆかりの多くの神々を祀っており、松本城下の歴史を見守ってきた神社と言えます。 松本神社の見どころ 松本城との位置関係: 松本城のすぐ北側に位置しており、境内からは松本城を望むことができます。城との歴史的な繋がりを感じられる場所です。 松本神社前井戸と暘谷水神: 境内の脇には、「松本城下町湧水群」の一つである「松本神社前井戸」があります。 この井戸の水は「日本名水百選」にも選ばれており、冷たくて美味しいと評判です。井戸の傍には、暘谷水神(ようこくすいじん)が祀られています。 御神木の大ケヤキ:...
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