壬生城は壬生胤業によって築かれた城で、以後は壬生氏4代の居城でした。1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻めに際して壬生義雄は義弟・皆川広照とともに北条方についたため滅亡しました。その後、徳川家康の関東入封にともない結城秀康が城主になります。以降も日野根氏、阿部氏、三浦氏、松平氏、加藤氏とめまぐるしく城主が代わりますが、1712年(正徳2年)に加藤嘉矩と入れ替わって鳥居忠英が入封すると、以後は明治まで鳥居氏が8代つづきました。
壬生城縄張りについてですが、本丸・二の丸・三の丸・東曲輪・下台曲輪・正念寺曲輪と六つの曲輪が輪郭式に配置され、これらの曲輪は土塁と堀によって囲まれ、本丸は約140m四方の方形で、南と北に虎口が設けられていたそうです。
壬生城の興味深い点は、徳川将軍家の日光への参拝(日光社参)の帰り道、四代将軍家綱まで、壬生城が宿泊所となったということです。このため将軍家の宿館に相応しい規模(563坪990畳) で書院造の御殿が本丸内に建設されだということです。本丸御殿のジオラマ模型を壬生町歴史民族資料館で見ることができます。
さらにもう1つ、戊辰戦争の安塚の戦いも興味深い壬生城の歴史トピックなのですが、長文になるのでまたの機会に。
現在、城址は本丸と二の丸の一部が「壬生町城址公園」として整備されており、本丸南側の土塁と空堀、三の丸土塁の一部が残っているほか、二の丸虎口跡に復...
Read more戦国時代に宇都宮家家臣から成り上がった壬生氏二代目当主壬生綱重が築城したらしい。ただ、以降の当主は、日光にも睨みを利かせやすい鹿沼城を本拠地としていたという。
江戸時代になると、壬生城の直ぐ東側500メートル程に南北を駆ける「壬生道」と呼ばれる道が整備された(今はやけに綺麗に整備された道になっている)。日光街道の脇往還であり、日光を参拝する将軍様の御成道として使われた。聞くところによると、往路は宇都宮を経由し、復路は壬生を経由したのだそうだ。
将軍の日光参拝は幕末までに19回程あったそうだが、そのうちのおよそ半分は壬生城で寝泊まりをなさったという。当然だが、将軍の泊まる宿場町として発展したらしい。
また、壬生城下は黒川を運河として運ばれてくる特産物をも捌いて居たという。栃木県南部地域で河岸の町と言えば栃木市だが、壬生町に...
Read more看板がなければ、御城だった事がわかんないよ~🤭 本丸に三の丸の水堀を合体させた復元だよ🤗 本丸には公民館 図書館 資料館が建ち、本丸のデカさが判る😵 資料館に、お城の模型が展示され規模が解るよ🤗 壬生城は、関ケ原の戦いで敵の西方についた大名が封ぜられた、【左遷】の城だったが、その後、日光参拝の将軍を守る重責を担うようになり、側用人や老中など幕府重臣を出す【出世】の城へと変わったんだって。『暴れん坊将軍』も泊まったお城だよ🤭もし お城を復元したら、壬生の町が消えてしまうくらいの広大な御城だぞ🥵 まっ 市街地に建つお城だから、復元は無理だけどね😁 平城に天守櫓の無い御殿型(千畳敷)のお城だよ😊デカいよね😵あっ御城印あったよ😉...
Read more