弘道館に入る前に正門前の大手橋を渡って街の様子をちらり。 大手橋のたもとの大手門は、現在絶賛工事中。
総合的な教育施設であった『弘道館』の近くには、 今でも小中高、幼稚園と学び舎が集中。
どれも当時のレプリカのような風情のある建物で統一され 景観もカッコイイ。
こちら、『正庁(せいちょう)』の玄関口。
左手には斉昭公御手植の黒松(三代目)。
玄関口すぐの『諸役会所 (しょやくかいしょ)』には、“尊攘”の掛け軸。
2代目光圀公が『大日本史』で“尊王敬幕”の歴史観を唱えたことが 後の9代目斉昭公の“尊王攘夷”の思想に強く影響されたそう。
この『徳川斉昭公・七郎麻呂(慶喜公)像』、 この後、水戸市内でけっこう見かけました。笑
こちらがいわゆる、ザ・『正庁』。国指定重要文化財。
斉昭公が推進した藩政改革の重要施策の一つとして 天保12(1841)年に創設された旧水戸藩の藩校である『弘文館』。
“教育によって人心を安定させ、教育を基盤として国を興す” という建学の精神のもと、儒学教育を礎に文武を磨く教育機関として機能。
弘文館建学の精神は、『弘道館記』に 『神儒一致』、『忠孝一致』、『文武一致』、『学問事業一致』、『治教一致』 の5項目として示されています。
藩校として全国一の規模を誇る敷地内には、 正庁・至善堂(しぜんどう)を中心に学問を学ぶ文館、 武術を収れんする武館、医学館、天文台、馬場、調連場などがあり、 総合大学のような施設。
また、弘道館の聖域とされるところには 建学の精神を表した弘道館記碑を納める『八卦堂(はっけどう)』、 学問の祖、孔子を祀る『孔子廟(こうしびょう)』、『鹿島神社』、 『学生警鐘(がくせいけいしょう)』などがあります。
こちら『弘道館』や『偕楽園』は、教育遺産の世界遺産登録を目指し、 『近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-』として 2015年4月に日本遺産認定されています。
今回は熱心にアツく語って下さる優秀なガイドさんが 案内して下さったのでとても分かりやすく理解も深まりましたが、 ガイドさんをお願いしない場合でも水戸市公式スマホアプリ 『水戸のこと』があるので無問題。
後はイヤホンを忘れないこと。 (私はアプリのことを知らなかったので忘れて利用できず。 orz...)
『弘道館』の陰の見どころ?はなんといっても“梅”。
梅を愛した斉昭公。 茨城県の梅の名所の代名詞『偕楽園』と『弘道館』に多くの梅を植え、 その由来を刻んだ『種梅記碑(しゅばいきひ)』は弘文館公園内にあります。
春の魁として清らかな花を咲かせ、 実は梅干にして軍旅の用や飢饉の時の非常食となる事から、 実用を重んじた斉昭公は梅を愛し、領内に広く植樹することを奨めたのだそう。
厳冬の中いち早く咲く『蝋梅(ろうばい)』など早咲きの梅や、 膨らみ始めた蕾やフライングして咲いている梅を見つけ 愛でる時間もいと楽し。 (´ェ`)
また梅の季節に来たいなと想いを馳せながら歩く。
『八卦堂』に収められているのが、 常陸太田市の真弓山から切り出された寒水石(大理石)に刻まれた 弘道館建学の精神の象徴である『弘道館記碑(こうどうかんきひ)』。
弘道館という校名は、この“弘道館記”の冒頭 “弘道とは何ぞ。人、よく道を弘むるなり。”からつけられたそう。
東日本大震災で一部が崩落した碑身が2013年11月に修復完了。 その他にも弘文館の多くの箇所が被災し、 旧弘文館復旧整備検討委員会の方針に基づき2014年に全面復旧。
復旧工事の過程では、新たに発見された建物構造や墨書などもあったそう。
重要文化財である建造物の復旧工事は、創建時の工法を踏まえた伝統的な技法に加え、 文化財を未来へと引き継ぐための耐震補強など新たな技術が駆使。
過去、現在、未来へと、文化財の復旧を通して歴史が繋がれていることを感じました。
弘文館のみどころは、日本最大の藩校であり徳川最後の将軍・慶喜公の 幼少期から学び舎であり大政奉還後の謹慎生活の場という歴史的側面だけでなく、 戦火や震災を受けても人の手で受け継がれてきた国の重要文化財などの建造物や、 斉昭公が愛した梅をはじめとする、山茱萸、斉昭夫人ゆかりの左近の桜、百日紅などの 四季折々の花々や樹木にふれながら散策するゆったりとした時間ではないでしょうか。
斉昭公は、『弘文館』を“文武を学ぶ場所”、『偕楽園』を“楽しむ場所”として 一対の施設として構想し作られたそうですが、 現代では『弘文館』も歴史を学びながら楽しめる場所だと思いました。
そして、旅はやっぱり地元のガイドさ...
Read moreA really nice place to visit. You need to take off your shoes when walking inside, which just adds to the immersive experience of the building. It would probably best to have a guide when walking around although you get something out of it just by reading the texts.
We were caught by the guy in front of the school who really wanted to talk to us and tell about the history of it. It was great. I visited at the end of September. I'd image the place is even more beautiful a few weeks later when the trees turn red and then in the spring with the...
Read more入館料400円。茨城子育て支援カード提示で200円。 1841年7月に完成し8月1日に仮開館(本開館は1857年5月31日)。第9代水戸藩主の徳川斉昭によって水戸城三の丸内に作られた(弘道館設立の前は、山野辺家などの重臣層の屋敷地であった)。初代教授頭取には、会沢正志斎と青山拙斎が就いた。建造は戸田蓬軒が務めた。また、経営にあたる学校奉行には安島帯刀が任命された。八卦堂の『弘道館記』の碑には藤田東湖草案の建学の精神が漢文で書かれている。武道のほかにも、広く諸科学、諸学問が教育・研究された。 学問の教育・研究としては、当時広く行われていた文系のほかにも、一部の自然科学についても行われていた。また、第2代水戸藩主の徳川光圀が編纂を始めた『大日本史』の影響を受けた水戸学の舞台ともなった。当時の藩校としては規模が大きく、また水戸藩も財政が潤っていたとはいえなかったことから、当時の水戸藩の教育政策がうかがえるといわれている。通常、卒業の概念が設けられているものが多いが、学問は一生行うものであるという考え方に基いて特に卒業の概念を設けず、若者も老人も同じ場で学んだといわれている。 また、藩学出席強制日数という形式的な基準を設定していた。文武のうち、文館への入学には一定水準以上の学力が要件となったが、武館への入学は無試験であった。一方で、家格と実力が合致するような人材を育成するという目的から、家柄に基づいた出席日数の制限が行われ、家柄が低い者へは出席すべき日数が少なく設定されていた。 明治維新の際、水戸藩では改革派(天狗党)と保守派(諸生党)が激しく争い、弘道館もその舞台となった。慶応4年(1868年)4月、謹慎中の徳川慶喜は江戸開城の合意事項に沿って水戸に引き移り、弘道館の至善堂に入った。しかし当時の水戸藩では藩主慶篤が病没して藩主不在の混乱状態であり、慶喜が紛争に担ぎ上げられることが予測されたため、7月に慶喜は静岡に移った。改元して明治元年10月1・2日(1868年11月14・15日)には会津戦争で敗走した諸生党が水戸に舞い戻って弘道館に立てこもり、水戸城に入った本圀寺党・天狗党の残党らと大手門を挟んで戦闘する事態となり、文館・武館・医学館等多くの建物が銃砲撃により焼失した(弘道館戦争)。1872年(明治5年)12月8日に閉鎖され、その後は太政官布告により公園とされた。 弘道館が有していた蔵書の多くは国有とされ、後に設立された官立の旧制水戸高等学校が引き継いだが、昭和20年(1945年)8月1日から2日未明にかけての水戸空襲により国有化された蔵書は焼失した。そのほかの蔵書については、弘道館の伝統を引き継ぐために関係者によって作られた自彊舎に引き継がれ、その後は、弘道学舎、水戸塾、水戸学院、茨城中学校・茨城高等学校と続いている。現在、約1万冊程度の蔵書が現存し、茨城県立歴史館が委託などで管理を行っている。 また、徳川斉昭の意向により設立当初から多くの梅樹が植えられ、その由来が『種梅記』の碑に記されている。斉昭の漢詩『弘道館に梅花を賞す』には「千本の梅がある」とある。現在、敷地跡は梅樹約60品種800本が植えられており、梅の名所となっている。...
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