城の本格的復元が始まる、今から20年近く前に一度訪問した事があるのですが、この度整備が完了したとのことで再度訪ねてみました。 来てビックリ「一体ここはドコ?」状態(笑)。 当時は土塁は撤去され水堀も全て埋められており、城らしい遺構は天守台石垣ぐらいしかありませんでした。城跡は野球グラウンドとなっていて少年達がのんびりと草野球を楽しんでいた記憶があります(笑)。
本丸水堀は掘り直され、土塁や石垣も再度修築して面目を一新し、城らしい威容を取り戻していました。素晴らしいっ! 関係者の努力に感謝です。昔はひとつながりの地面だった場所に今は水堀が存在し、しかも橋が架かっているのですから何とも奇妙な感覚を覚えたのも確かですが(笑)。
松代城は戦国時代に信濃善光寺平方面の制圧を目論んでいた武田信玄が、大軍を収容し軍需物資を集積するための前進拠点として築いた「海津城」が元になっています。松代城は江戸時代を通じて使用された近世城郭でもあるのですが、そのため信玄当時の古い城の特徴もたくさん残されていました。
まず一つは近世城郭としては80m四方しかない、異例の狭さの本丸です。近世になると城に求められる機能は防御能力に留まらず、藩の行政の中心、迎賓館、藩主の日常の生活空間等、多岐にわたるようになり、まとまった広大なスペースが必要とされるようになりました。 しかし海津城の築城当時は「戦闘機能」しか要求されなかったので、この大きさでも十分だったのです。 でもやっぱり使い勝手が悪かったのか、江戸時代の半ばには城の外郭である花の丸に御殿を移してしまいました。その後は本丸の建物は全て取り払われて、何もない状態が続いていたのです。
あと武田流築城術と言ったらコレ! の丸馬出しと三日月堀です。現在の駐車場の辺りにありました。兵の安全な出撃と収容を可能とする為の仕掛けですが、戦国時代のまま特に改変されることもなく、江戸時代を通じて残されていました。今回は再現されていませんが、今後の課題ですかね。
現地で気付く、もう一つの城の奇異な特徴は、本丸背後に何の防御構造物も存在しない事です。谷や川などの自然障壁も、曲輪も無くそのまま畑が広がっています。「これじゃ後ろから攻められたら、ひとたまりもないではないか!」と思いますが、もちろん信玄ともあろう人が、そんなところに城を築くワケがありません(笑)。
今でこそ江戸時代の河川付け替え工事により600mも離れてしまっていますが、元々は本丸のすぐ後ろを千曲川が洗う「後ろ堅固」の城だったのです。それだけに洪水には悩まされ続け、たびたび藩主が船で高台に逃げ出す程でした。
それで平和な時代には無用の障害物として、要害よりも日常の利便性をとり川の流れを変えたのです。このあたりの事情は池波正太郎の歴史小説「恩田木工」(真田藩の名家老で真田公園内に銅像があります)...
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