近くにありバスの行先としても見かけるのに行ったことがない史跡が「三重城跡」でした。 理由の一つは駐車場がない事。城跡は、那覇市のど真ん中、明治橋を渡ってすぐ左折し、 ロワジールホテルの海側隣にひっそりと存在しているのですが、周りはホテルとマンショ ンで少なくとも城跡見学者用の駐車場はなし。近くのコインパーキングを使うしかありま せん。というわけで今回私はゆいレールの旭橋駅から12分かけて歩いていきました。 城跡は、ロワジールホテル那覇の海側の端を左に入った所に、鳥居に続く階段があります。 中は沖縄の他の城跡と同じように、城壁しか残っておらず、中には小さな祈りの社が鎮座 されています。そして国場川が大海に解放される正に出口ですので、広々とした景色を臨 むことができます。 三重城の薀蓄は那覇市のホームページに以下の様に記述されています。
三重城、別称「王ヌ大比屋(おひや)城」の建造は、尚清王の夫人となった娘を持つ楚辺 村の豪族「王農大親(オーヌウフヤ)」によるとされている。 当初は、屋良座森城(ヤラザモリグスク)とともに、13世紀から16世紀に朝鮮半島や中国 大陸沿岸で活動していた「倭寇」と呼ばれる海賊から自国を防衛するための砦であり、堤 の中ほどに臨海寺を抱え、4つの橋で連なる長堤の先に存在したが、明治期から大正期にか けて「西の海」と呼ばれた海の部分の埋め立てが進み、現在のような地勢となった。 1832年頃に「球陽八景」を下絵として葛飾北斎が描いたとされる「琉球八景」の一枚、 「臨海湖声(りんかいこせい)浦添美術館所蔵」を見れば、埋め立てられる前の様子を確 認する事ができる。 倭寇の衰退とともに港防衛の役割の薄れてきた三重城は、琉球舞踊「花風」に唄われるよ うに、大切な人の船出を見送る岬として知られるようになっていく。 現在では長堤砦であった時の様子をみる事は出来ないが、史蹟として残り「水神」や「五 臓神」などの石碑をみる事ができる。
とても大きな役割を果たしていた城なのですね。 現在、城跡は「三重城ふるさと海岸」という、海岸沿いの遊歩道と実質的につながってお り、水辺沿いにかなりの距離を散策することができます。周辺の西町、東町は旧那覇市の 中心街だったところなので、史跡後も散見されます。合わせて天気の良い日に、是非訪...
Read moreThere are no ruins here or English signage. It’s a pretty view and the place has a commanding view of the harbor. You can definitely understand why a castle was built here. However, if your looking for ruins or historical sites, wave off. The only sign is in Japanese and it says to pick up...
Read more今から約450年前の1554年頃、那覇港口に高い城垣を築き、長堤としての三重城と屋良座を総称して「三重城(ミーグスク=新しい城)」となり、後に「城」としての意味を持つようになりました。その三重城は、守礼門が建設された1528年より27年後に、王農大親によって築城され、その頃は、いわゆる尚清(しょうせい)王の時代で、真玉橋経由那覇港までの道路、真玉道も完成し、城下町首里を発展させた時代です。この時代は、首里城守礼門、崇元寺拡張、金武観音寺建立、首里城の城壁拡張、首里城継世門、大美御殿(世子殿)また民家にも瓦葺きが登場する等、琉球王国の一大築城、建築工事の時代で、戦前の国宝、世界遺産が誕生した時代とも言われています。当時、進貢貿易の盛んな時代で、ニライカナイにむけて作られた三重城は信仰への聖域の場となり、那覇の重要な史跡でもありました。三重城一帯は、海の彼方へ無限の可能性を約束する海外貿易や、進貢船の出発、帰港の母港であり、長堤としての三重城の城塞は、「ニライカナイ」へ向けて出ていく交易者を送り出す場でもありました。また、大洋を乗りこえて意気揚々と帰還する「海やかりゆし」を出迎える「神の懐」でもあった三重城の石組みと高度な技術は、海洋自然との融合で、海にそびえる城塞として、人々の心のシンボルでもありました。三重城は、次の時代に向けて沖縄の歴史、文化、信仰の地として見直す必要がある重要なモニュメントと言えます。 (沖縄県観光事業協同組合...
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