早雲の生まれは永享四年(1432年)ですので、この年、23歳でした。当時としては、遅いスタートです。しかも、仕えたのが、将軍の義政ではなく、その弟の義視だったことが、早雲のその後に大きな影響を与えることになった義政がすんなり将軍職を義視に譲っていれば、早雲はそのまま出世して、幕府の中枢で活躍したと思います。ところが、義政と日野富子夫妻の間に義尚が生まれ、義視と義尚との後継者争いが始まることによって、雲ゆきが怪しくなり、この争いが応仁の乱の引き金になったことは、周知のとおりです。つまり、早雲は、応仁の乱が始まる直前から、その真っ只中にいたわけであり、応仁元年(1467年)正月、応仁の乱が勃発(ぼっぱつ)した。義視は東軍細川勝元に擁立される形であったが、一時期、身の置き所がなく、伊勢(三重県)に落ち行くということがあり、近侍である早雲も伊勢に下っております。ところが、翌二年、状況が好転して、義視が京に迎えられたとき、早雲は京には戻らず、そのまま伊勢に留まったのです。要するに浪人の身になってしまったわけで、早雲素浪人学説との接点がみられます。では、その後、早雲はどうしたのでしようか。何と、駿河(静岡県)ヘ下っているのです。前年、応仁の乱が始まったとき、駿河守護今川義忠が兵を率いて上洛し、東軍に加わり、滞陣中、早雲の妹北川殿を見初めて結婚しております。 北川殿が、兄早雲の浪人を知って駿河に呼んだのか、あるいは、「駿河にきて夫義忠の補佐をして欲しい」という要請があったので、義視について京にもどらなかったのか、早雲が駿河に下ったのは、その何れかです。駿河に下った早雲は、しばらくの間、目立った活躍をしていない。皮肉なことに、妹の夫である今川義忠の不慮の死によって、にわかに早雲の出番がまわってきたのです。 文明八年(1476年)四月、遠江(静岡県)に攻め込んでいった義忠が戦死しております。義忠と北川殿との間に生まれた龍王丸はまだ六歳と幼く、今川家において家督争いが生まれてしまったのです。このとき、家督争いを収めたのが早雲でした。「龍王丸が成人するまで」という約束で家督代行の座についた小鹿郎範満がなかなか龍王丸に家督をもどさないので、長享元年(1487年)十一月、早雲は駿府今川館に小鹿新五郎範満を急襲し、龍王丸に家督をとりもどした。そして龍王丸は元服して氏親を名乗った。氏親は、戦功の第一の功労者であり、伯父でもある早雲に恩賞として興国寺城を与えた。これは早雲自身の希望だったかも知れません。早雲は今川領国の東の守りを任されたのです。行き違い等々の切はご容赦下さい...
Read more神奈川県は小田原市の小田原駅前に有ります 「北条早雲公像」です。(因みに北条早雲の実際の名は伊勢【新九郎】盛時です。自分では北条早雲と名乗った事は有りません)
北条早雲は言わずと知れた戦国時代を開いたとされる小田原北条氏の初代ですね。
こちらの像は、皆さん書いている通り「火牛の計」と言う戦術がモチーフとなっていました。
「火牛の計」とはなんぞやと言うと… 元々は中国の兵法の一つで、沢山の牛の角に剣や松明(たいまつ)等を付け、尻尾には油に浸した葦の束を結んで点火し、夜討ちの際に敵陣に放つ事で相手を混乱させる戦術です。
日本では古くは源平合戦の中の一つ、「倶利伽羅峠の戦い」で木曽義仲がこの戦法を使い、平家を大軍が来たと勘違いさせ大混乱に陥れ勝利したとか。
北条早雲は明応四年(1495年)に小田原城を奪取する際、1000頭の牛(1000頭は誇張された数かも…)の角に松明(たいまつ)を灯して突入させ攻略し、勝利したらしいですね。
北条早雲はこの攻略で小田原城を手中にし、以後5代で約100年にわたり、小田原北条氏としてこの地及び関東一円を支配し統治しました。
尚、この北条早雲の火牛の計のエピソードは、北条早雲の大胆さを伝える後の時代の創作と言う説も有ります。どちらにしても奇策を用い大胆な戦略で勝利を掴むと言うタイプの武将だったのでしょうかね北条早雲は。
皆さんも是非にブラリと。 因みに駅前ロータリーの御迎え停車ゾーンにハザード付けて車停めて約3分程で見学出来ますが…直ぐに駐禁取り締まり来ますのでご注意を。コインパーキングに入...
Read more小田原駅西口にある北条早雲像。北条早雲は戦国時代に相模国を統一した大名です。北条氏と言えば鎌倉幕府の執権を連想する人も多いですが、北条早雲は鎌倉幕府とは一切関係はなく、区別のために後北条氏と呼ばれています。 早雲は京都出身(※諸説あり。備中(岡山県)出身という説もあります)で、応仁の乱が続いていた1469年に駿河へと渡って今川氏に仕え、二度に渡る家督争いの解決に貢献しました。早雲の尽力で今川家の家督を継ぐ事ができた今川氏親により、1487年に駿河国の興国寺城を拝領すると、1493年に足利茶々丸を破って伊豆を制圧。1495年に大森藤頼から小田原城を奪い、1516年には三浦義同(よしあつ)を破って相模全域を制圧しました。 早雲は、後世には卑劣と言える戦法で国や土地を奪ったと書かれたこともあったようですが、それは不当な評価で、その様なことは戦国大名であれば、多くの者達が行っていることです。むしろ早雲は民衆が安心して暮らせるように、他の大名に先駆けて検地を行い、貫高制を整備し、違法な年貢の取り立てを阻止するために厳しい取締を行ったとされます。そのため、早雲は家臣や領民から大変尊敬されていました。早雲以降、5代に渡って後北条氏は繁栄しました。 ちなみに、北条早雲は、生前は「北条」とは名乗っておらず、「北条」を名乗るのは、その子・氏綱からです。早雲は、生前は伊勢新九郎盛時、出家後は伊勢宗瑞(そうずい)又は早雲庵宗瑞と名...
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