我是在上栄町车站看到三桥节子美术院的招牌吸引我走了一条很陡的路上了山。在山之上发现了这个庙宇。有关这个庙宇的资料。我简单用WIKI日文记录。
历史 -
近松寺(ごんしょうじ)は、滋賀県大津市逢坂にある天台寺門宗の寺院。総本山園城寺の別所。山号は長等山。本尊は千手観音。
延喜4年(904年)、園城寺南院の現・長等公園東側の現在地に天台密教の大成者である五大院安然和尚によって創建される。創建時は本堂、法華堂、三重塔などがあり、後に園城寺南院の別所寺院となる。
応仁3年(1469年)には延暦寺に弾圧された浄土真宗本願寺派の蓮如を園城寺が保護し、南院の万徳院の斡旋もあり、近松寺の敷地の一部を譲っている。蓮如はそこに後に近松別院となる堂を建立している。
安土桃山時代の文禄4年(1595年)、園城寺が豊臣秀吉の怒りに触れて寺領を没収されて廃寺となった際に近松寺も衰微した。しかし、秀吉の死の直前に園城寺は再興され、それに伴って慶長9年(1604年)に本堂が再建された。
江戸時代、近松門左衛門こと杉森信盛が寛文12年(1672年)に当寺に入り、3年間をこの地で過ごしたという[1]。近松寺は関蝉丸神社を介して説教節を生業とする芸能者を支配していた事もあり、芸能者がよく出入りしていた。
現在の本堂は享保元年(1716年)の再建であり、本尊は千手観音である。北に隣接し、渡廊下で繋がっている阿弥陀堂は、嘉永3年(1850年)の建立で善光寺如来堂ともいい、本尊は善光寺如来である。
近松寺は別名に高観音ともいうが、これは園城寺の観音菩薩の中で一番高いところに所在しているからだという。
園城寺五別所のうちで創建時から場所を移動していないのは当寺のみである。
境内有 -
本堂(大津市指定有形文化財) - 享保元年(1716年)再建。 渡廊下(大津市指定有形文化財) - 嘉永3年(1850年)建立。 阿弥陀堂(善光寺如来堂、大津市指定有形文化財) -...
Read more知る人ぞ知る、日本の経済と文化の歴史にじつはとても深く関わっているお寺です。
江戸時代初期の浄瑠璃作者・近松門左衛門は、浄瑠璃作者となる前、この寺の奥深く(参拝者の目も届かない場所)に、大石良昭から命を受け、赤穂の塩を海外へ輸出する作戦会議をする目的である塾を開設しました。
この塾は幕府の思惑に反して、赤穂の塩の全国普及と貿易の策を企てるためのものであり、以下のような人々が指導者として集められていました。
海外へ出国したものの、鎖国令で迎えの船が来ない中、なんとかやりくりして帰国した人たち(松浦党の古老や朱印船の船頭、航海技術者)
2.出国できず身を隠していたポルトガル人たち
3.スペインから追放されたセファルディーと呼ばれるユダヤ系教養人(未公認の亡命者)たちやユダヤ系修道士
主として平戸松浦党の協力によりこれらの人材が集められましたが、当時の日本では稀有の『すべての指導者が海外渡航の経験者』という集団でもあり、最先端情報の集積場となっていました。
いわゆる「塩の道」の計画立案と交易の手立てを考えていた近松門左衛門は、高齢の上記2や3の彼らを通訳として連れていくわけにもいかず、スペインの支配地域との交易のため、この塾において、自らもスペイン語を覚えていきます。
中略となりますが、かくして作られた広い交易網の中で赤穂塩の生み出した莫大な利益は、禁裏方(当時財政難に陥っていた天皇家側)の財政支援に繋がります。 また近松門左衛門のスペイン語の知識は、その後、現在もなお文楽の素晴らしい脚本として残る彼の膨大な浄瑠璃脚本作品群に大きく影響することとなります。
近松門左衛門が浄瑠璃作者となる前の10年間を、一部の研究者は『行方不明』としているようですが、じつはここを拠点の一つとして、かように日本経済の礎となる上記のような動きを行っていたことが、彼の子孫の学者によ...
Read more三井寺の五別所の一つ。 五別所は、平安時代に民衆を救済する為に本境内周辺に建てられた別院。 微妙寺・水観寺・近松寺・尾蔵寺(廃寺)・常在寺(廃寺)があります。 微妙寺、水観寺は現在、三井寺境内に移設されてます。また、微妙寺の本尊は廃寺なった尾蔵寺の本尊だそうです。 そう言う意味で、五別所で三井寺境内外で唯一残存する別所はこちらの近松寺だけです。 後世に残して行きたいですね。 近松寺の別名は高観...
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