江戸城天守閣は都合3度築かれています。 初代は徳川家康公の慶長天守閣。1606年に白亜の連立式層塔型五重五階、地下一階
二代目は徳川秀忠公の元和天守閣。1621年の独立式層塔型五重五階、地下一階で皆さんが良く知る翡翠色の屋根瓦にの烏城。
三代目は徳川家光公の寛永天守閣。1635年の独立式層塔型五重五階、地下一階で赤い屋根瓦に白漆喰の天守閣。
以降、明暦の大火で全焼して以来天守閣は再建されなかったと言われています。
※徳川家康公の生涯の続き
天正14年(1586年)正三位、天正15年(1587年)秀吉公の推挙で従二位大納言になり駿河大納言となり、朝日姫を娶ったことから豊臣家と縁戚となり、豊臣姓を名乗ることを許されます。豊臣政権下となり、関東・陸奥(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)・出羽(現在の秋田県、山形県)惣無事令(…豊臣家平和令のことで、豊臣政権下において大名同士で戦をすること、また侵略戦争をすることを禁じた法律)が発布され、家康公は関東・陸奥・出羽の監視を言い渡され、朝廷から左近衛大将兼左馬寮御監を叙任します。左近衛大将は当時の武家の最高官職の一つで、左馬寮(さめりょう)とは日本全国から朝廷に献上された牧場で朝廷が管理する馬の飼育や調教をする責任者のことを指します。
秀吉公は小田原征伐を開始し、奥州の伊達政宗を服従させて北条氏を滅亡させます。そして、天正18年(1590年)秀吉公は家康公の所領の三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国を召し上げ、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、神奈川県の横浜市、川崎市、相模原市付近)、伊豆国(現在の静岡県)、相模国(現在の神奈川県)、上野国(現在の群馬県)、下野国(現在の栃木県)の一部、上総国(現在の千葉県)、下総国(現在の千葉県)、常陸国(現在の茨城県)の一部合わせて240万石(1石あたり270000円と計算して年収6480億円)で役料として近江国(現在の滋賀県)、伊勢国(現在の三重県)、三河国、信濃国よりそれぞれ11万石合わせて251万石(6777億円)としましたが、これは明らかに左遷人事で、実際にはこの6、7割の収入しかなかったようです。居城は北条氏の小田原城ではなく、太田道灌が築いた江戸城を採用しました。
秀吉公が家康公に求めたのは、北条氏の残党狩り、安房国(現在の千葉県)館山の里見家の動向監視、旧室町幕府系残党と旧鎌倉幕府系残党動向監視が主任務で、家康公は上杉、伊達、佐竹の監視として高崎に井伊直政、館林に榊原康政、土浦に結城秀康、里見家監視に大多喜に本多忠勝を置いた。有力譜代を江戸から遠ざけるのは家康公の肝いりの一つで周りの秀吉公恩顧の大名への牽制だと云われています。
天正19年(1591年)奥州一揆鎮圧のため、豊臣秀次を総大将とする軍に参戦し鎮圧成功。朝鮮出兵たる文禄の役、慶長の役では、肥前国(現在の佐賀県)名護屋城に出向くものの、一度も渡海しないまま終戦。
慶長元年(1596年)内大臣になり、内府と言われるようになる。
慶長3年(1598年)豊臣秀吉公が病により倒れると、秀吉公の最側近石田三成は、秀頼を支えるため五大老、五奉行を設置。五大老には徳川家康公、前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景→死後→上杉景勝。 五奉行には石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家が就く。
豊臣秀吉公が死の間際に、家康公に秀頼が成人するまで政事(まつりごと)を託すと遺言を残し死去。すぐに朝鮮出兵を帰還、撤退させる。秀吉公死後、次代の天下人となるため 秀吉公恩顧の有力大名を味方に取り込むことに成功し、反旗をひるがしている者には容赦無く制裁を課している。また味方になった大名には秀頼の命にして石高の加増をしている。
慶長5年(1600年)豊後国(現在の大分県)にオランダ船籍のリーフデ号が流れ着く。乗員は手厚く助け、特にウィリアム・アダムスは外交顧問に、ヤン・ヨーステンは寵愛した。同年3月会津の上杉景勝及び直江兼続が軍備を増強していると、出羽国山形の最上義光から、江戸の徳川秀忠公に知らせが入る。事情を聞くため特使を派遣すると、直江兼続は直江状を家康公に送りつける。中身は挑発的な文章に家康公が怒り狂い、ついに会津征伐が開始される。これが引き金となり石田三成、大谷刑部吉継らが挙兵。
関ヶ原の合戦に突入して行きました。本戦は膠着状態で、始まった当初は杭瀬川の戦いに西軍勝利、三成軍師の島左近の計略により徳川秀忠公、榊原康政、本多正信、大久保忠隣(ただちか)別働隊は上田にて真田昌幸、信繁(幸村)親子によるゲリラ戦法で足止めを喰らい、三成側有利でしたが、家康公が小早川陣営に懐柔策と石火矢、大砲等の恫喝により、小早川秀秋は大谷刑部吉継に襲い掛かり形勢逆転。さらに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠(すけただ)、吉川広家の裏切りに遭い、大谷吉継戦死、島津義広は通称島津の退き口で、敵中ど真ん中を進軍し家康公本陣前で急転進し、足止めの兵を随所に忍ばせ、命辛辛薩摩へ帰還したそうです。この島津の退き口の影響で井伊直政は重症、松平忠吉も負傷しました。助けに行った本多忠勝は島津の鉄砲隊の集中砲火を浴びても無傷だったそうです。
石田三成は、佐和山に敗走中に東軍の田中吉政に捕縛。小西行長、安国寺恵瓊らと共に六条河原にて斬首刑。他西軍の武将も処刑、流罪、改易、減封に処せられました。これにより徳川家の石高は251万石から400万石(1兆800億円)となり、敗戦者豊臣秀頼は摂津国(現在の大阪府)、河内国(現在の大阪府と兵庫県の一部)、和泉国(現在の大阪府)の65万石の一大名になり、家康公の天下人が確定しました。
外交面としては、当時世界最強を誇ったスペイン王国との国交を樹立。慶長12年(1607年)朝鮮出兵で断交状態だった、李氏朝鮮と国交回復、慶長14年(1609年)にオランダ王国と国交樹立。慶長18年(1613年)に英国と国交樹立。実は江戸時代に鎖国政策は始まりますが、長崎の出島以外に平戸に商館所が開設していて欧州の国々との貿易が盛んに行われていたそうです。
慶長6年(1601年)徳川家が征夷大将軍になるべく系図の改姓を行う。 慶長7年(1602年)常陸国水戸の佐竹氏を出羽国久保田(現在の秋田県秋田市)に減封し、武田家の名籍を継いだ家康公の子、武田信吉が水戸に移封し、関東一円、越前国(現在の福井県)、美濃国、南信濃、近江国、山城国(現在の京都府)、大和国(現在の奈良県)、北伊勢(桑名)を徳川の親藩・譜代で堅める。
慶長8年(1603年)後陽成天皇より、従一位征夷大将軍、右大臣、源氏長者、淳和院奨学院別当に就く 慶長10年(1605年)征夷大将軍を秀忠公に譲り、自身は大御所となる。 慶長15年(1610年)足尾銅山、石見銀山、佐渡金山の採掘、生産開始 慶長16年(1611年)御三家の基礎を作る。
家康公は、一大名となったとはいえ、まだまだ財力が莫大だった豊臣家に京都の街、寺、院、神社、仏閣等の修繕を行わせます。そこで事件が勃発します。方広寺の鐘楼に「国家安康」を家康公の名を分断している。「君臣豊楽」を豊臣家を君として子孫の代まで豊臣家が栄華になるという難癖をつけ、ついに家康公と豊臣家の2回目の全面戦争が起きます。
大坂冬の陣はこうして始まり、徳川軍20万の大軍で大坂城を包囲し、木津川口、今福口、鴨野口、博労淵の戦いでは徳川軍の大勝で終わりましたが、真田丸の戦いのみ敗北。そこで、家康公は朝、昼、晩と3回勝ち鬨を挙げさせ、大砲を使い大坂城天守閣に砲撃し和睦を結ばせます。当初は二の丸、三の丸のみ破壊という条件でしたが、家康公は強引に外、中、内堀を埋めさせ、本丸しか残さない無防備な裸城となりました。
大坂夏の陣は、徳川軍圧倒的有利な条件で各所で大勝利を収め、次々に武将が戦死して行き、真田信繁(幸村)だけが、天王寺・岡山の戦いにおいて、家康公本陣に奇襲して危うく家康公が戦死しそうになるものの水野勝成が寸でのところで駆け付け救出し、家康公の子松平忠輝が、真田信繁(幸村)を討ち取り 豊臣方の裏切りが続発し、ついに大坂城落城し、豊臣秀頼と淀殿、側近は自害。千姫は救出されている。
戦後、元和元年(1615年)禁中並公家諸法度17条が制定 諸大名にも、武家諸法度並びに一国一城令が制定され、徳川家の日本全国の支配が確定。これより264年の天下を築き上げました。
元和2年(1616年)鷹狩りの最中に病に倒れる。
同年3月太政大臣に叙任。太政大臣になるのは武家として4人目で平清盛、足利義満、豊臣秀吉公、徳川家康公となっている。
同年4月75歳(満73歳4ヶ月)で死去。 死因は鯛の天ぷらによる食中毒となっているが、実は胃癌が原因で数年前から患っていて死の直前に急激に痩せていき、胃のあたりに大きなシコリが出来、それは触っても確認出来るくらいデカイものだったという。 これにより以後、江戸城内で天ぷらを食べることが禁止になったという。
・剣の達人 上泉信綱に師事し新陰流の免許皆伝 伊東一刀斎の一刀流の免許皆伝 塚原卜伝の弟子筋からも師事を受ける
・鉄砲の名手 なんと火縄銃で100メートル先の的を射抜くことが出来る
・多趣味 書物が好き、鷹狩りが好き、薬作り、猿楽、囲碁殿堂入り、将棋十段、香道・薫物好き、織田信長公に負けず劣らずの新しい物好き、書画、健康志向、倹約好き。
・尊敬して人物 劉邦、唐の太宗、魏微、張良、太公望、武王、文王、韓信、源頼朝、武田晴信(信玄)公(軍事、政事を手本にした。)
アクセス...
Read more皇居東御苑の敷地内のメインスポットの1つで、かつて江戸城の天守が建立されていた場所を示す史跡でもあります。実際の江戸城天守は何度か火災によって再建を繰り返しており、1657年の焼失後、1659年に天守台は建てられたものの、天守そのものはついに再建されることなく、以降現在に至るまで天守台のみとなっています。 メインスポットの1つではありますが、とりわけ注文すべきスポット、というわけではありません。高さも15m弱で、昇降はスロープのみとなっているため、(やや勾配があるものの)車椅子やベビーカーでも容易に利用することが出来ます。天守台上部は展望台となっているものの、皇居東御苑を広く俯瞰出来るほどの高さはありません。休憩用のベンチもありますが、ベンチ以外には何もなく、滞在時間も10〜20分程度で済むでしょう。お殿様やお姫様の気分を味わうようなスポットではないと思います。皇居東御苑散策の思い出作りのスポットの一つ、と捉えるだけでいいと思います。
It's one of the main spots on the grounds of the East Gardens of the Imperial Palace, and is also a historical site that marks the location where the Edo Castle keep was once erected. The actual Edo Castle tower was rebuilt several times due to fire, and although the base was built in 1659 after it was destroyed by fire in 1657, the tower itself was never rebuilt, and only the tower has remained to this day. Although it's one of the main spots, it's not a particularly special place to visit. The base is less than 15 meters high, and access is by ramp only, so it is easily accessible to wheelchairs and baby strollers (although there is a slight incline). The upper part of the keep is an observation deck, but it is not high enough to get a bird's-eye view of the East Gardens of the Imperial Palace. There are benches for resting, but there is nothing else to rest on, and your stay will probably only last 10 to 20 minutes. It's not a spot where you will feel like a lord or princess. It's just one of the places to make memories while strolling in the East Gardens of the...
Read moreAfter being destroyed in the Great Fire of Meireki, a castle tower base built for reconstruction but never reconstructed the tower itself.
At the end of the Edo period, The castle was peacefully surrendered from the Tokugawa shogunate to the...
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