田沼意次の父は紀州藩の足軽の生まれ。家柄としては随分に低いほうですが、そのころ鳴かず飛ばずの部屋住みだった徳川吉宗に仕えていたことが幸いし、吉宗の将軍就任に伴って幕府旗本となっております。
田沼意次もその跡をつぎ、将軍家重 (いえしげ)・家治 (いえはる)に才覚ある為に重用されて、出世街道をのぼり、明和4年(1767年)に徳川家治の側用人 (そばようにん)と素晴らしい能力を発揮した結果、安永元年(1772年)には老中と成りました。260年の徳川幕府があったことです。
田沼意次は江戸幕府の「長年の無駄遣いで財政難(第4の大改革と加えたい)」でしたので田沼意次が行った幕政改革 としては、前にあげた株仲間公認政策や江戸市中の風水害予防策の利根川東遷、印旛沼干拓、蝦夷地開発の他に、俵物の輸出奨励や南鐐二朱銀の発行などの政策を発揮しております。
俵物とは、いりこ・ほしあわび・ふかのひれなどを俵に詰めたもので、蝦夷地で生産され、長崎から清(中国)に輸出された経済政策です。これらは中国料理の高級食材として珍重されております。因みに「いりこ」というのは煮干しのことではなく「干しなまこ」のことです。
また、南鐐二朱銀 (なんりょうにしゅぎん)とは額面が決められた計数貨幣のことです。江戸時代の通貨のうち、西日本で主に使われていた銀貨は、重さによって価値を計る秤量貨幣 (ひょうりょうかへい)で、額面が固定されている金貨との交換が不便だった為に、この為に通貨の流通を円滑にしようとして発行されたのが、計数貨幣である南鐐二朱銀です。
商業や経済を重んじた田沼意次の政策として特筆される素晴らしい政策能力です。田沼意次は老中となって幕府改革に権勢を上手に指導能力を発揮し、前記の沢山の政策には幕政には莫大な資金を要し商人の協力も必要な為に援助を受けていた。
此れらのことが誤解されて幕府内や一般民衆の間で知らなかったことで評判が誤解された政治家です。また、田沼意次の江戸幕府が260年も承継されたことや幕府は参勤交代は外様対策と捉え勝ちですが「参勤場所での庶民の地域経済が潤う」のです。
田沼意次の考え方は封建社会な思考からの政策通さは可なり離れていて、むしろ現在の経済感覚に近いものでした。従って、田沼意次が第4の大改革を行ったと最近では田沼時代をもっと評価して良いのではないかという意見が多く出るようになっております。
行き違い等々の切はご容赦下さい...
Read moreお墓の写す趣味はないので写真はありません
ここには江戸期における特筆すべき政治家が眠っています
その人の名は 田沼意次
この方は歴史的評価がかなり低いですねー 残念です
私も田沼時代=賄賂政治と授業でやった記憶があります
しかし江戸三大改革と呼ばれる改革は全て失敗しているなか この田沼時代のみ経済は上向きなんです つまり政治家としてかなり有能なんです
農業主義から重商業主義へ転換 結果 貨幣経済が農村部に浸透します
商業だけではなく鉱山や水田の開発 蝦夷地の開墾 等々 幕府財政立て直しの成功者です
賄賂に関してですが 人に物を頼むのに手ぶらではいけない その為の賄賂は挨拶がわり これが当時の当たり前の習慣でした
例えば 頼み事で江戸城に登城しても茶坊主と呼ばれる江戸城内の世話役に賄賂を渡さないと 一日中控室で待っていても取り次いでもらえなかった
当時絶大な権力を握っていた意次さんに頼みごとをする人が多く その分たくさんの 賄賂が集まっただけ
と いうのが実情のようです [越後屋 お主も悪よのー] 歴史で貼り付けられたレッテルが現在まで残るなんて怖いですね
わずか600石の旗本から57,000石の大名 (相良藩 現在の牧之原市)にまで昇進し 側用人から老中になった初めての人物です
地元牧之原市では名君として名が残っています
まぁこの方歴代老中の中でもブッチギリの出世をし 人となりもかなりユニークな方なので周辺の反感もあったのではないかと
ちなみになんですが この意次さんかなりのイケメンでした 徳川家治の側室であった「お知保の方」 (おちほのかた)にも贈り物を届け 大奥を味方に付けます 手強い大奥の女中達ですらすっかり心を奪われ...
Read more染井霊園や本妙寺などは明治時代に移転又は、造営されたものだが勝林寺はすでに江戸時代にはあったそうで、田沼家の菩提寺になっている。田沼意次というのは八代吉宗により九代家重の小性に召しだされ、その後、十代家治の治世で若年寄、老中と出世した人物であるというのは有名ですね。しかし、老中になって権力を手に入れると政治より己れの権力を永遠に保つことしか考えないようになったらしい。家重も家治もあまり政治に興味がなく、それを見ていた意次は「所詮、将軍は飾り物。」と思い込んだらしい。天明の飢饉が起こったのに有効な手段を打とうとさえしなかったから、庶民は田沼父子を恨んでいたと言われています。その天明4年の3月に息子の意知が城内で旗本の佐野善左衛門政言に斬りつけられて亡くなったそうです。この刃傷事件は五代将軍の御代に起こった赤穂浪士の討ち入り事件になぞらえられ、庶民はどこで知ったのやら犯人の佐野の葬儀の時は徳本寺に集まり、その数は日増しに増えていったそうですが、意知の葬列には投石騒ぎがあったそうです。面白いことに飢饉によってお米の値段が上がっていったそうですが、佐野の葬儀のあとに何故か値下がりしていったらしく、庶民は佐野を「世直し大明神」と崇めたそうです。この刃傷事件から2年後に意次は老中を罷免させ...
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