武田信玄公之像 〒400-0031 山梨県甲府市丸の内1丁目
甲府駅前に信玄の像があることは知っていたのですが、じっくり見たのは、2025年4月6日でした。 甲府の街を見つめているような迫力感を感じました。 碑文を文字起こししておきます。
武田信玄公(武田大膳太夫信濃守信玄) 大永元年(一五二一)十一月三日~元亀四年(一五七三)四月十二日 武田信玄は、武田信虎と大井夫人の長男として生まれる。成人して晴信を名乗るが、一般に知られている信玄は法名である。 天文十年(一五四一)、父信虎を駿河に追放して甲斐の守護となり、信濃を制圧して上杉謙信と対立し、五度に及び川中島で合戦を繰り返す。 その後将軍足利義昭ら反織田信長勢力と結び、戦国最強と謳われた甲斐軍団を率いて京都進出を企て、徳川家康を三方ヶ原に破る。天正元年(一五七三)三河の野田城攻略中に発病。帰国途中の信濃国伊那駒場で没する。享年五十三歳。三年間喪が秘され、天正四年に恵林寺で葬儀が行われた。 甲州法度(はっと)の制定、信玄堤の名で知られる治水工事など、民政家として抜群の手腕を振るって領国経営にも尽くした。
TAKEDA SHINGEN November 3,1521-April 12,1573 Takeda Shingen of Kai Province (Yamanashi Prefecture) was a preeminent lord, "Daimyo " in feudal Japan with exceptional military prestige in the late stage of Sengoku era (Japan's civil war). He was the eldest son of the aggressive warlord, Takeda Nobutora, and his wife, Ohi. When he celebrated his coming of age, he received his formal name, Harunobu. His Buddhist master gave him Houmyou (Dharma name) of Shingen which is widely known. In 1541, Shingen suddenly rebelled and expelled his father Nobutora to Suruga Province. He then took over leadership of Kai. His army occupied Shinano Province (Nagano Prefecture) and engaged in five battles against Uesugi Kenshin," the Battles of Kawanakajima". Then, Shingen allied with Shogun Ashikaga Yoshiaki and other forces opposed to Oda Nobunaga. Shingen had an ambition to invade Kyoto and led a force, "Koshu Gundan or Koshu Army" said to be the most formidable in that era. During this campaign, Shingen defeated Tokugawa Ieyasu' s army at Mikatagahara (Shizuoka Prefecture). In 1573, while laying siege to Noda Castle in Mikawa Province (Aichi Prefecture), Shingen fell ill and could not realize his ambition to invade Kyoto. Shingen died shortly after at Inakomanba in Shinano Province on his way back home. He was 53 years old. His followers kept his death a secret for three years and in 1576, held a solemn funeral at Erinji Temple. Using his outstanding administrative abilities, Shingen also dedicated himself to managing his territory. His accomplishments include legislating the Koshu Hatto(the Laws of Kai Province) and establishing a flood control project called...
Read more甲斐の覇者、戦国時代最強といわれる武田信玄はどのような人物であったのか?
現実主義者の信玄は 1、大きな城作りは攻撃して攻め落とすには無駄。兵士の力を温存するため作らない。 2、実の親でも、政治力無くと見れば追放している。また息子まで自殺に追い込んでいる。 3、情報収集力が高く、忍びの者の三ツ者、素破(すっぱ)を使い全国津々浦々まで調べさせていた。 4、決して独断で作戦を決めるのでなく、負け戦は避け、常に24人の参謀の意見を聞いて決定していたといわれている。 5、彼の刀を見ても、大きくて切れ味の鋭いものでなく、折れずにフレキシブルに取り扱いやすい比較的小さな刀である。 6、戦陣での形は、兵力、地形、相手の弱点などを考慮して組まれ錬られて臨んでいる。
大きな城は作らず、戦い方を見ても、荒砥城(長野県 千曲市)などに見られるように小高い山の頂に山城を作り、そこを拠点に出撃して長野盆地にある「川中島の戦い」に臨んでいったといわれる。なんとこの戦いは12年も続いたという!
戦い方はどのようなものであったのかというと、ライバル上杉謙信との戦いに見られるように両者合わせて50以上!!の山城を当時は建て、そこから出撃しては互いの領土に攻め込んでいたのである。
何故に信玄は信濃に攻め込んで行ったのか? それには甲斐全体が大地震や台風などの自然災害やそれに伴う疫病が蔓延しており深刻な飢饉が起こっていたのである。[妙法寺記より] そのため食糧不足で穀倉地帯の北信濃「川中島周辺の穀倉地帯」へ進出しなければならなかったことがあったといわれている。
確かに土壌学的に見れば、甲府辺りは起伏が多く、火山灰土壌で水を透過し過ぎて稲作には困難である。(その為日照が有り水はけのよい蒲萄作りや蕎麦作りにはよい!)
反対に、上杉謙信側は武田信玄により農民や地域住民は追い立てられ北信濃方面に逃れて来た為に「義の心」に駆られて戦いを信玄に挑んだ理由とされている。
1553年9月第一次川中島の戦いでは局地戦で終えたが、その後信玄は先を見越し、東の北条氏康、西の今川義元との三国同盟を結び着々と上杉包囲網を画策した。
1555年4月、第二次川中島の戦いでは、上杉謙信側の山城の一つの部隊に裏切りが見られたので、謙信も川中島を挟んでの決戦に踏み切れず(背後から襲われる可能性あり)膠着状態に陥った。
このような状況から、謙信に比べ信玄の甲斐の本拠地(甲府)からは距離が長くて倍近く兵站が伸びていることや、冬を迎えて200日という長きに渡ってしまった為、信玄は一気に戦いを決したかったが意のままにならず、信玄は焦ったのである!!
1557年第三次川中島の戦いも行われており、また甲斐の国では、更なる深刻極まりない飢饉が起こっていた。 そこで信玄は決意を固めて、千曲川の川中島に海津城を作り、2000人のツワモノ武士が集まった拠点城を作り決戦に臨んだ。 後世、これを黒田官兵衛が冬の陣で真似ているのだ!? (これが真田丸!)
1561年8月第四次川中島の戦いでは決着を着けるべくして、上杉謙信は...
Read moreDuring my early college years, I had to do a report on Takeda Shingen. I always love reading and watching both fictional and non-fictional accounts of his battles. The statue is right in the middle of Kofu city next to the train station. Plenty of near by parking and...
Read more