鎌倉時代から室町時代にかけての持明院統(北朝)の歴代12人の天皇の陵と伏見宮栄仁親王の墓です。
持明院統の後深草法皇は生前から納骨堂となる法華堂を建立するように指示し、嘉元2年(1304)7月16日崩御後に火葬なされました。
遺骨はいったん安楽行院の仏壇下に納められ、深草に法華堂が建立されると、嘉元3年(1305)8月29日、伏見上皇と後伏見上皇が見守る中、後深草の遺骨が移されました。
戦国時代に法華堂は焼失し、衰退した安楽行院は、後陽成天皇の遺骨が納骨された元和元年(1615)に再建され、寛文2年(1662)には安楽行院も再興されました。
再建された法華堂はまたも損壊し、元禄年間に再々建されました。
被葬された天皇は以下の12名です。 第89代後深草天皇(嘉元2年(1304)崩御) 第92代伏見天皇(文保元年(1317)崩御) 第93代後伏見天皇(建武3年(1336)崩御) 北朝4代後光厳天皇(応安7年(1374)崩御) 北朝5代後円融天皇(明徳4年(1393)崩御) 第100代後小松天皇(永享5年(1433)崩御) 第101代称光天皇(正長元年(1428)崩御) 第103代後土御門天皇(明応9年(1500)崩御) 第104代後柏原天皇(大永6年(1526)崩御) 第105代後奈良天皇(弘治3年(1557)崩御) 第106代正親町天皇(文禄2年(1593)崩御) 第107代後陽成天皇(元和3年(1617)崩御)
第89代後深草天皇の在位期間は寛元4年1月29日(1246年2月16日)~正元元年11月26日(1260年1月9日)です。
後嵯峨天皇の第三皇子として生まれ、今日の皇室の祖です。
寛元元年(1243)6月10日に誕生し、生後2ヶ月で立太子し、嵯峨天皇の譲位により2歳で即位しました。
在位中は後嵯峨上皇が院政を敷き、直接政務をしませんでした。
正元元年(1259)に瘧病を患い、同11月、後嵯峨上皇の要請で、17歳で弟の亀山天皇に譲位しました。
父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の北朝と亀山系の南朝(大覚寺統)による対立が生じました。
文永5年(1268)に、後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草上皇の皇子熈仁親王を差し置いて亀山天皇の皇子世仁親王が立太子し、ここから、後深草上皇の血統(持明院統)と亀山天皇の血統(大覚寺統)の対立が始まりました。
文永9年(1272)、後嵯峨法皇は治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねて崩御してしまいました。
困った幕府は2人の母に諮問し、法皇の素意が亀山天皇親政にあるとの返答を得て、亀山親政が決定しました。
2年後、亀山天皇は後宇多天皇に譲位し、院政を開始しました。
これに不満を抱いた後深草上皇は、翌年、太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、後深草上皇寄りの西園寺実兼が執権北条時宗と話し合いをして、後深草上皇の皇子熈仁親王を同年中に立太子させることに成功しました。
弘安3年(1280)頃から後深草上皇方による後宇多天皇退位と皇太子擁立の動きが強まり、弘安10年(1287)10月、幕府からの要請により熈仁親王が即位し(伏見天皇)、院政を開始しました。
正応2年(1289)4月には伏見天皇の皇子胤仁親王(後伏見天皇)を幼年で立太子させ、10月には第六皇子・久明親王を鎌倉将軍として下向させ、持明院統に有利な体勢を築きました。
正応3年(1290年)2月、出家し公式の院政を停めましたが、その後もしばしば伏見天皇の諮問を受けて政治への関与が続き、持明院統の中心としてその繁栄に努めました。
第92代伏見天皇の在位は弘安10年10月21日(1287年11月27日)~永仁6年7月22日(1298年8月30日)で、在位中に訴訟制度の大規模な改革を行ない、承久の乱以降破綻していた治天の君の権力が回復することになったと評価されています。
しかし、春宮時代から伏見天皇に仕えていた京極為兼が幕府に処罰され、皇子の胤仁親王(後伏見天皇)への譲位を余儀なくされた。伏見の最側近である為兼が幕府に問題視されたことは、大覚寺統を有利にさせました。
伏見天皇は和歌と書道に優れ、文化面でも活躍し、京極派の代表歌人の一人に数えられ、能書家としては「書聖」「歴朝随一」とも評価されています。
皇太子時代には万葉集、日本書紀や古今和歌集の講義を聞くなど、古典を熱心に学び、源氏物語を愛読したといいます。
京極為兼による和歌の指導を受け、春宮時代から和歌の新風を模索し、後に、京極派として確立することとなりました。
第93代後伏見天皇の在位は永仁6年7月22日(1298年8月30日)~正安3年1月21日(1301年3月2日)で、父・伏見天皇からの譲位により、11歳で即位し、伏見上皇が院政を執り行ないました。
2代続けて持明院統が天皇となったため、勢力を巻き返した大覚寺統や幕府の圧力を受け、正安3年(1301)、大覚寺統の後二条天皇に譲位しました。
新たに上皇となった後伏見はまだ14歳で皇子がなく、次の皇太子には異母弟の富仁親王(後の花園天皇)がなりました。
徳治3年(1308)、後二条天皇が急死し、後伏見天皇の弟の花園天皇が即位し、正和2年(1313)から文保2年(1318)の間、院政を敷きました。
花園天皇の在位の間、幕府と話し合い、持明院統と大覚寺統から交互に天皇を出すと言う取り決めを行なおうとしましたが失敗に終わりました。
文保2年(1318)、在位10年で花園天皇は大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、嘉暦元年(1326)に幕府の裁定で持明院統の量仁親王が皇太子に立ちました。
しかし、後醍醐天皇は譲位に応じず、元弘元年(1331)幕府に反旗を翻し、捕らえられ、幕府により皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行ないました。
元弘3年(1333)、後醍醐天皇に呼応した足利尊氏により京都の六波羅探題が襲撃され、後伏見上皇は光厳天皇・花園上皇とともに東国に逃れようとしましたが捕らえられて京都に連れ戻されました。
後伏見上皇は出家剃髪し、建武3年(1336)に崩御されました。
北朝第4代後光厳天皇の在位は観応3年8月17日(1352年9月25日)~応安4年3月23日(1371年4月9日)で、天皇家の葬儀が幕末まで泉涌寺で行われたのは後光厳天皇からです。
もともと、皇位継承には縁がなく、将来は妙法院門跡に入ることが決まっていましたが、正平一統によって北朝が解消したのち、室町幕府との和平を破棄した南朝は、北朝の主だった皇族を拉致しました。
三宮(後光厳)は拉致を免れたため、幕府の申入れにより急遽践祚することとなりました。
三種の神器は一統の際に南朝によって接収されていたため継承できず、神器が無い状態で天皇に即位しました。
在位中は、財政難・人材難に喘ぎ、政務の停滞に直面し、南朝の京都侵攻によって三度も都を追われました。
さらに、帰京した父の光厳法皇と持明院統の伝統を巡って対立しました。
そんな中でも、正平一統以降滞っていた朝儀を再興させ、二度にわたって勅撰和歌集の撰集を行わせました。
兄崇光上皇との皇位継承問題では、室町幕府や公卿たちの支持を得て、応安4年(1371)3月に自身の皇子緒仁親王(後円融天皇)への譲位を強行しました。
すると興福寺衆徒の強訴が起き、新帝の即位礼が延期となってしまい、後光厳上皇は解決を図ろうとし、衆徒と激しく対立しました。
しかし、疱瘡を患い、応安7年(1374)1月に37歳で崩御なされ、2月2日に泉涌寺...
Read more深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)は、京都府京都市伏見区にある天皇陵です。
鎌倉時代から室町時代にかけての持明院統の歴代12人の天皇の陵および伏見宮栄仁親王の墓が営まれています。過去には深草法華堂・深草十二帝陵・安楽行院法華堂と呼ばれた。陵形は方形堂になります。
沿革として説明されているのが、持明院統の後深草法皇は、生前より、深草に納骨堂となる法華堂を建立するように指示していました。嘉元2年(1304年)7月16日に後深草は崩御し、遺命によって火葬されました。
遺骨はいったん安楽行院の仏壇下に納められたが、後深草の指示通り、深草に法華堂が建立されると、嘉元3年(1305年)8月29日、伏見上皇と後伏見上皇が見守るなか落慶供養が行われ、後深草の遺骨が移されました。
因みに鎌倉から室町時代は深草北陵使用しますが、江戸時代は、泉涌寺の右奥に霊明殿の前を通り、その奥に月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られています。
御所で亡くなられた天皇は、人が顔の前にぬのに骨壺を入れて、深草北陵まで歩いて運ばれたと、泉涌寺の学芸員の方は、言われてました。
アクセスは、京阪本線藤森駅(ふじのもり)から徒歩12分です。JR奈良線の...
Read more鎌倉末期、89代・後深草帝に始まる持明院統の92代・伏見帝、93代・後伏見帝、北朝4代・後光厳帝、北朝5代・後円融帝、100代・後小松帝、101代・称光帝、103代・後土御門帝、104代・後柏原帝、105代・後奈良帝、106代・正親町帝、江戸初期の107代・後陽成帝までの歴代天皇と栄仁親王が合祀されている。 この間、鎌倉幕府崩壊、建武の新政、南北朝、応仁の乱、戦国期、室町幕府崩壊、信長の天下統一事業開始、秀吉の天下統一完成、徳川幕府の成立といった激動の300年間に即位した天皇のお墓だ。十二人の天皇が葬られているので、深草十二帝陵とも呼ばれている。 23/01/20、京都医療センターに通院した後、藤森から深草へ歩いて巡った。 激しい時代の流れの中、折り合いが悪かったためか108代・御水尾帝以降の天皇は泉涌寺に葬られることになったようで、深草北陵は表向きは静かな陵墓だったが、裏ではそうで...
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