清水寺の子安の塔の奥の道からでも、国道1号線のほうからでも行けます。山あいの寺ですが、小督局が出家した寺と伝わります。平家物語によると、高倉天皇ははじめ、葵の前という女童を愛しますが、世間はその深い寵愛に、すわ女御になるのでは?と騒ぎ、”葵女御”と噂するようになります。時の摂政(のちに関白)藤原基房は、彼女身分が低いのがご心配なら私の猶子(養女)にして妃としての体裁を整えます、どうぞご安心くださいと気遣って奏上するほどでした。在位中のことでもあり、女のことであまり異例なことをするのはちょっと、と天皇が遠慮して遠ざかっているうちに、彼女は寵を失ったと感じ、意気消沈し里帰り先で若くして亡くなってしまいます。最愛の女性を失い、酷く落ち込む高倉天皇のご様子を見て、清盛の娘・中宮徳子は、葵の前に似た美人を新たに天皇にすすめます。その小督局は、琴の名手で大変な美貌の持ち主であり、当時、宮中一の美女といわれ、信西(鳥羽上皇の近臣、出家後、影の実力者に。平治の乱で敗けて自害)の孫でした。そして小督の父親は、後白河法皇の乳兄弟・院の近臣だった桜町中納言・藤原成範であり、今度は身分に問題ありません。若き高倉天皇は新しい恋人に夢中になりますが、この小督の局、そもそもは藤原隆房の愛人であり、今は高倉天皇の寵愛を受ける身になったわけですが、この二人の貴人はともに平清盛の娘婿でした。二人の娘婿を同じ女に寝取られた、という清盛の不快ぶりを知り、小督は自ら宮中を出て嵯峨野に隠棲します。(別に彼女は法で定める正式な妃の一人ではなく、使用人である女房身分でしたので、勝手に宮中を出てもさほど問題のない立場でした。)、天皇は嘆き悲しみ、彼女を家来に探しに行かせます。峰の嵐か松風か、たずぬる人の琴の音か、おぼつかなくは思へども、と平家物語で謳われた名場面の一つですが、夫を恋う「想夫恋」の曲のかすかな琴の音をたよりに、藤原仲国は彼女を探し当てます。天皇はこっそり彼女を宮中に戻しますが、彼女が自分の娘より早く懐妊するに至り、いよいよキレた平清盛は、小督を殺せ!と怒り、小督に烙印を打ち無理矢理髪を切り尼にして追放します。産まれた高倉天皇第2皇女はすぐさま中宮徳子の猶子(養女)にされ、他の貴族に養育されます。ショックを受け、さらに落ち込んだ高倉天皇は、わずか21歳で崩御されます。遺言は「小督のいる清閑寺に朕を葬るように」でした。そして、その遺言の通り、実際に、このお寺の傍に陵が築かれました。…というのが平家物語の著述ですが、殿下乗り合い事件などでも、<これは摂関家と平家のトラブルですが、摂政藤原基房がある日牛車で出かけたところ、女車と行き合い、道を譲らないので、無礼だと家来が叱責し乱暴を働きます。しかし、その女車は平清盛の長男・重盛の息子、資盛でした。何かの事情でその日は身をやつして目立たないように出かけたのでしょうが、事実を知った基房は縮み上がります。平身低頭平家に謝罪しますが、清盛は猛り狂い、摂関家に暴力で仕返しをします。一方、長男の重盛は終始冷静で清盛をいさめようとした。>…という筋書きが平家物語にありますが、実際はガチギレしたのは重盛のほうであり、暴力での報復を家来に命じたのも重盛だったという事実が、愚管抄(慈円、摂関家の出身)に明記されています。これは、平家物語では、盛者必衰の理をてきめんにあらわすために、一貫して清盛を徹底的に悪者にする筋書きにしてあるためであり、どうやら、文学作品としての平家物語の内容は史実としては真に受けてはいけない部分もあるようです。ですので、中宮徳子が自ら勧めた小督に、本当に清盛が殺害命令を出したのか、火で烙印を打たせたのか、どの程度の迫害をしたのか、しなかったのか、単に空気を読んだ小督の自主的な退出だったのか、ガチで命の危険があるほどだったのか、事実は正直分かりません。ちなみに、当時の宮廷政治は、後白河院と平家の2大勢力が微妙なバランスで拮抗しており、清盛は小督の父、院の近臣・成範に一目置いていたといわれ、その姫である小督に、ましてや、時の天皇の御子を産んだ彼女に、そうそう酷いことはできないのではないか?という説もあります。いや、徳子に待望の皇子がなかなか授からず、焦っていた当時の平家ならやるかもしれん、とも。なお、どちらにせよ、しばらくして、中宮徳子にやっと皇子が誕生、清盛の圧力で幼児のうちにさっそく太子し即位(=幼帝安徳天皇の即位)+代わりに譲位した高倉上皇の院政準備がすすめられてきましたが、将来の高倉院政のもとで、老獪な権力者・後白河法皇(高倉上皇の父)の院政を停止させることで平家の全盛を守ろうとした平家側の計画は、思いがけない帝王の若すぎる崩御で、目論見が完全に崩れ、どんどん歯車が狂いだします。さて、小督のその後について、明らかに確認できる史実として、元久2年(1205年)、藤原定家は明月記で、嵯峨で病床にあった「皇后宮の母」小督のお見舞いに訪れたと書いています。この時、48歳になる小督でしたが、見舞いに集まった貴族たちの間で、今も噂にたがわぬ目の覚めるような美しさだと話題になったと伝わります。定家の姉、健寿御前も宮中で知り合った頃の小督の冴え冴えとした容姿の美しさについて、自著「たまきはる」で言及しています。その後の小督の消息は知れません。嵯峨から大原に移ったとも、80くらいまで長生きしたともいわれますが、証拠たる文献はありません。さて、小督の産んだ範子内親王ですが、御存じの通り平家はほどなく滅び、脅威はなくなったため、順調な出世を遂げます。賀茂の斎院に選ばれ、退下後、さらに、時の土御門天皇の准母となり、院号宣下され皇后としての待遇を受けました。(中世・院政時代には、天皇と婚姻関係にはない、有力な内親王に皇后待遇を与えることがありました。)20代の若さで出家隠棲し、やむなく逃げ隠れを続けた薄幸な佳人の母とは違い、娘の範子内親王は、高倉天皇の遺した内親王としてふさわしい扱いを受け続け、...
Read moreThis tiny temple is not in the vicinity of the Kiyomizu ji area. I discovered it by accident. Out of curiosity, I ventured there after walking about 0.5 km one way. Based on my limited Japanese, I think the temple is related to the music and art inspiration god. The garden has a lot of flowers and view of the mountains is not bad either. Because it’s not a main stream temple, I supposed you can find the tranquility here with the hassle from ordinary people. I rang the temple bell and it was a good feeling that the muse may...
Read moreCute little temple a short stroll from the main thoroughfare so not many people venture up there (we were the only 2 people when we where there on a Saturday morning). The gardens are stunning as is the view, and the grounds are full of history. Be sure to grab a Dorayaki from the vendor on the way down, they...
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