普段は閉門され特別公開のときのみ拝観可能です 新選組の前身の「浪士組」幹部の宿所だったそうで、あの有名な新選組誕生のきっかけとなる清河八郎の演説の舞台です
「浪士組」とは、1863年(文久3年)2月に、初めて上洛する将軍徳川家茂の警護、同時に京の治安維持の補強として臨時に求人され非正規雇用された234名の浪士たちのことです
今でいうロシアのワグネルのような非正規の軍事組織みたいなものに思えます
一行は江戸から中山道を京に上って二条城の南2キロほどと近い壬生村に宿を求め、壬生寺に隣接する大きな郷士3軒に分宿します
浪士組隊長清河八郎以下幹部は壬生寺の向かいのこの寺を宿舎としたそうです
文久3年(1863年)2月29日 到着した数日後の夜のこと、浪士隊の隊士全員が新徳寺の本堂に集められ、清河八郎から浪士組の真の目的は将軍警護ではなく尊王攘夷であると告げられます その現場がこの新徳寺です
清河八郎のこの演説に対し芹沢鴨や近藤勇、土方歳三らは目的が違うと清河と決別します これにより浪士組は、清河に従って江戸に戻り尊皇攘夷をおこなう一派と、このまま京に残り現政権の幕府維持と京の治安確保を目的とする「壬生浪士組」に分離することになりました 壬生浪士組は発足時24名だったそうです
1964年の丹波哲郎主演の映画「暗殺」がこの経緯を詳しく取り上げています 原作は司馬遼太郎の「奇妙なり八郎」です
幕府に願い出て身分は京都守護職の会津藩預かりとなりますが、非正規軍事組織であることは変わりありません 京都守護職の松平容保にとっては、正規の治安組織の京都所司代と町奉行だけでは、ますます悪化する京の治安維持に不安を感じ不逞浪士の取り締まりと市中警備の増強を期待したものだと思われます この壬生浪士組がのちの新選組となるという経緯だそうです
新選組の名前は、元治元年7月19日(1864年8月20日)での「禁門の変」での彼等の活躍がめざましかったことから、将軍徳川家茂より感状とともにその名を賜ったとのことです
つまり新選組の誕生の根源は、本当はこの...
Read more23年8月23日、「京の夏の夏」特別公開に訪れました。 通常非公開のお寺です。
写真撮影は本堂の中も出来ました。 幕末、将軍を護衛する任務のため上洛した「浪士組」のリーダー・清河八郎が約200人の浪士たちを集めて、『新徳寺』の本堂で尊王攘夷の演説を行ないました。 本堂は当時のものだそうです。 多くの浪士と、清河八郎は江戸に引き返しましたが、これに反発し京都にとどまった芹沢鴨、近藤勇、土方歳三などは、のちの「新選組」を立ち上げました。
本堂の内陣にはご本尊・准胝観音菩薩像、「屋根葺き地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像が安置されています。 また、本堂内陣向かって左横の部屋は、清河八郎が泊まった部屋だそうです。
絵心のあるご住職さんだそうで、ご住職さんが描かれた新選組の肖像画なども展示してありました。 本堂の屋根は珍しい形をしているそうで、2匹の猿がいました。 ...
Read more新徳善寺は、京都市中京区壬生賀陽御所町にある臨済宗永源寺派の寺院になります。山号を鳳翔山。別称を屋根葺地蔵ともよばれます。
新徳寺はしばしば新選組の最初の大舞台として取り上げられています。
今回は、京都壬生開運招福三社寺めぐり(壬生寺・新徳寺・元祇園梛神社)で訪問しました。 内部は、非公開となっておりみることは出来ませんでしたが開門されていましたので境内には入ることが出来ました。 御朱印をいただく際に限定御朱印に描かれている准胝観音菩薩を描く時に撮影した写真を見せていただく事が出来ました。実物は見られませんでしたが気分よく帰ることが出来ました。
後日に壬生寺の節分に行ったときにもう一度、新徳寺を門前から見たら本堂の屋根の上に猿が乗っているのに気が付きました。これもよいものがみれ...
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