In the quiet streets of Kyoto's Fushimi district, Teradaya stands as a silent witness to the tumultuous end of the Edo period. This historic inn, once a bustling hub for travelers along the Yodo River, became an unwitting stage for two pivotal events that shaped Japan's path to modernization.
In 1862, the inn was the site of the Teradaya Incident, where nine samurai from the Satsuma domain lost their lives in a violent clash over political ideals. Four years later, in 1866, the renowned reformer Sakamoto Ryōma narrowly escaped assassination here, thanks to the quick thinking of his future wife, Oryō.
Though the original structure was lost during the Battle of Toba–Fushimi in 1868, the reconstructed building preserves the atmosphere of the era. Walking through its corridors, one can almost hear the hushed conversations of revolutionaries and feel the weight of their aspirations.
Teradaya is more than a historical site; it's a place where the past lingers in the air, inviting visitors to reflect on the courage and convictions that forged a...
Read more昔 何度か行きました
寺田屋には2つの事件があります
1つ目の寺田屋事件について
薩摩藩の島津久光は薩摩から 1000人を連れて京都に上洛していました
(東京に上京するのと同じ感じです)
当時 天皇は京都に御所があり
東京は別荘と言う人がいますが 私は気にしてない派です
島津は朝廷 幕府 諸藩の連携で諸外国を取り入れ強化し 対抗しようとする [公武合体論]を推進していました
一方で同じ薩摩藩内には[尊王派]を唱えている過激派と言われる人達もいました
尊王派とは 幕府 諸藩より天皇が 上だ!考えており
その天皇自身も外国人が都の京都に入るのを嫌い 外国人を追い払おうとしている事に同意してる人達の事です
島津は尊皇派となって幕府を討幕する事を期待されてましたが
島津は公武合体論で その気はありませんでした
それどころか朝廷からは尊皇派を 取り締まるように!
という命令が下されました
そして取り締まりを聞いた過激派の人達は朝廷と幕府の要人を襲撃し その首を島津に献上することで朝廷に対し 蜂起せざる得ない状況を作り出そうと画策します
画策を知った島津は 過激派が計画を練るために集まってる寺田屋に 鎮撫使を出します
島津は鎮撫使に過激派が説得に応じない場合は 上意討ちとして斬り捨てるようにと命令していました
結果 説得に応じない過激派に鎮撫使は上意討ちだとして斬りかかります
薩摩藩同士による同士打ちの勃発です
この寺田屋騒動によって島津の鎮撫使1人が死亡 5人が重軽傷を負いました
一方で過激派は6人が死亡 2人が重傷を負います
重傷を負った2人も後に殺されています
これによって過激派の多くの志士達は投降し
尊皇派の過激派は京都から追放され島津久光が幕政改革をするようになりました
これが1つ目の寺田屋事件です。
2つ目の寺田屋事件について
1つ目の寺田屋事件の4年後の1866年1月22日に小松帯刀邸で薩長同盟が結ばれます
薩長同盟とは
薩摩藩と長州藩は国のあり方で対立していましたが
坂本龍馬や中岡慎太郎が介入し 西郷隆盛と木戸孝充らが締結させた 倒幕運動進展の基盤となった同盟の事です
この締結には薩摩藩の小松帯刀が裏で 長州藩 薩摩藩 双方の落とし処を提示していて
坂本龍馬は薩摩藩の代表の1人として参加していました
薩長同盟を知った幕府は翌日 坂本龍馬が投宿していた寺田屋に伏見奉行を差し向け坂本龍馬を襲撃します
坂本龍馬の妻 お龍は その時 寺田屋に奉公していて お龍は伏見奉行の襲撃を察知し 入浴中でしたが裸で飛び出し龍馬に 危険を知らせます
龍馬は傷を負いましたが逃げ切る事が出来ました
これが2つ目の寺田屋事件です
一ヶ月半後 龍馬と お龍は西郷隆盛の斡旋で薩摩藩船[三国丸]で鹿児島へ
鹿児島に着いた2人は霧島で湯治して傷を癒やします
そして霧島山の頂にある天の逆鉾を見に高千穂峰を登山しました
これが日本人初の新婚旅行と言われています
さて、龍馬が居た部屋 梅の間にある刀傷と弾痕ですが
文献資料調査したところでは [鳥羽 伏見の戦い]の戦火で寺田屋は焼失したと書かれています
逆に寺田屋の一部は焼失したが 今の梅の間にある刀傷や弾痕は本物との見解もあるようです
どちらが本当なのか分かりませんが
本物と思って見ればロマンがあるので 私は本物として見てました(笑)
ところで あまりにも有名な坂本龍馬の名前ですが 実は幼名・通称の時に使う名前であって
本名は坂本直柔(なおなり)となっております
坂本龍馬は 近親者や親しい人への 手紙には 龍馬と書き
公的な署名には坂本直柔と書いて いました
なので薩長同盟の調印には坂本直柔と書いているかも?
ちなみに坂本龍馬のエピソードを 初伝記として書いたのが坂崎紫瀾の [汗血千里之駒]
知名度を大きく上げたのは司馬遼太郎の[竜馬がゆく]です
この小説達が無かったら 坂本龍馬の現在の盛り上がりも違っていたでしょうし
局所的な観光地として 今の寺田屋の存在も変わっていたかもしれませんね…
坂本龍馬の事を抜きにしても
寺田屋の前には琵琶湖から流れ そして 宇治川に繋がる水路に十石舟 や三十石船があり
風情があり景観がとても良いです
11月の土日だけですが 有料で船での遊覧も出来ます
ちなみに龍馬通りがありますが それほど龍馬押ししてません(笑)
西郷さんパネルがあるので...
Read moreThink most people are gonna come for one thing - to visit sites related to the "renaissance samurai", Sakamoto Ryoma.
Would be great if I could do that though - on arrival at 4pm did I then see a sign, in Japanese, that says they open till 3.40pm daily.
Still, a great place to take some nice pictures for memories' sake. Place is near Chushojima Station (Keihan) and has a shopping street nearby named after Ryoma. At the end of the shopping street (go north then east) is a Kintetsu station and if you are up to it, you can walk to Fushimi Inari Shrine as well as Kyoto station (6.7km) but there're a...
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