小田原城 別名 小峯城、小早川城 城の型式 平山城 天守閣 複合式層塔型3重4階 城の規模 東西南北9km
・小田原藩(江戸時代) 天正18年(1590年)小田原征伐後に関東入りをした徳川家康公は、東国の侵攻と西国から侵攻の両睨みできる最重要地点である小田原の地に、家康公の最側近で徳川十六神将の一人の大久保忠世(ただよ)を4万石で任す。嫡子忠隣(ただちか)は2.5万石加増され、6.5万石とし幕府老中に昇進する。豊臣氏との最終決戦の大坂の陣の時に、真田攻めの際に老中首座の地位にあった本多正信と対立しとしまう。
家康公の跡を継ぎ2代将軍秀忠公の最側近として重宝され、上野国(現在の群馬県)高崎藩13万石へ移封を打診されるも固辞し憲政を奮うも、忠隣の嫡子忠常が病により死去してしまう辺りから、大久保氏の権力に陰りが見え始める。さらに忠常の死去に気を落としてしまった忠隣は、幕府の政務を欠席することが多くなり、家康公から不興を買ってしまう。 また、武家諸法度で禁じている。大名同士の婚姻も勝手に結んでしまったことを政敵である本多正信、正純親子に咎められ、ついに改易となってしまう。
大久保氏改易の替わりに、元和5年(1619年)上総(現在の千葉県)大多喜藩から阿部正次が5万石で入る。しかし僅か4年で武蔵(現在の東京都、埼玉県の一部、神奈川県の一部)岩槻藩へ移封となる。
阿部氏にかわり寛永9年(1632年)下野(現在の栃木県)真岡藩より、稲葉正勝が8.5万石で入る。正勝は、徳川家第3代将軍徳川家光公の乳母の春日局の息子にあたる人物で、正勝、正則、正信と3代に渡り幕府老中を務める。貞享2年(1685年)正信は、10.2万石に加増され越後(現在の新潟県)高田藩へ移封する。
稲葉正信に替わり、下総(現在の千葉県)佐倉藩より大久保忠朝(ただとも)が10.3万石で入部する。忠朝は、忠隣の孫にあたる人物で大久保氏第5代目の当主。以降明治維新まで大久保家10代に渡り小田原の地を統治する。
大久保氏は代々幕府の要職に就くも、要職に就くのに比例していくように出費もかさみ、財政難にもなる。
宝永4年(1707年)富士山の宝永大噴火により領内の広範囲に渡り火山灰や土石流により大変な被害があったため、一時的に駿河(現在の静岡県)の一部と相模(現在の神奈川県)足柄、高座が幕府領(天領)となり代々の領地が付与される。(但し復興後は元通りになる)
・幻の5重6階天守閣… 小田原城の天守台の石垣ですが、現在の3重4階の天守閣には似つかわしくない巨大な石垣となっています。文献によると実は大久保忠世の時代に5重の天守閣を造る計画がありました。しかし、実際には建造されることはありませんでした。江戸の江戸城(現在の皇居)と江戸幕府ひいては、徳川家に遠慮したものと云われています。
・譜代大名の城では… 譜代大名の城で本丸とは、すなわち徳川将軍家専用の宿泊施設であり、家臣たる譜代大名が使わなかったとされています。 そのため、実際の譜代大名の政庁は二の丸にありました。小田原城でも本丸より、二の丸が異様に広いのは、そこに政庁である二の丸御殿があったからです。
アクセス JR東海道新幹線『ひかり』『こだま』、東海道本線・上野東京ライン・湘南新宿ライン、小田急線、箱根登山鉄道、伊豆箱根鉄道大雄山線...
Read moreA nice wide area leading into the castle grounds full of wonderful pine trees and other beautiful plants. It’s very...
Read more元、小田原市立城内小学校だった場所です。 広場の中央付近にある並木は、小学校時代から植えれていて、その並木に沿うように木造校舎が建っていました。 お堀に掛かる学橋も通学のために架橋されたものです。 今は講堂だけが現存していて、小田原城歴史見聞...
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