拝観するとガイドさんが付き、解説してもらえる。堺随一の寺院でもあろうが、このガイドさんも引き出しが多く、大坂夏の陣で家康が落命して、ここに葬られたとの伝説、そして昭和になってここに家康の墓を建てた松下幸之助と水戸徳川家家老の三木家との縁が松下電器単独スポンサーのドラマ『水戸黄門』に結実する話しなど盛りだくさんである。他にも御典医半井家の切支丹燈籠、天下人三好長慶とその一族の、しかし小さな墓、古田織部作庭の名勝庭園、狩野派の八方睨みの龍の図の天井など見どころは多い。 堺ゆかりの千利休始め茶道の錚々たる歴々の供養塔もあり、武野紹鴎の供養塔は茶道の釜を載せたような形をした奇抜なもの。釜と台座との間に空洞があるので「そこを風が通ると、茶釜の沸騰する音が聞えるっていうんですよ。誰も聞いた事ないんですけどね」とのガイドさんの諧謔は楽しい。ただ実際に厳しい禅寺としてお坊さんが勤行、修行を行っており、声を発するのは憚られる時もあり、拝観にあたって写真撮影は一切不可である。 とはいえ、それはほんの一画であり、それ以外の広大な境内はまた砂色の地にあって、植栽にはそこに風が通るのが見えるかのように、その「何か」が満ちている姿が感じとれるかのように自然に間隔をあけて草木を配した美しくも不思議な庭園となっている。それはどこか別の星の庭園のような印象があって、気が遠くなりそうなほど。恐らく堺の秘密の一端は、この庭園...
Read more弘治3年(1557年)三好長慶が父元長の菩提を弔うために、大林宗套(だいりんそうとう)を迎え開山とした臨済宗大徳寺派の寺院です。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣による焼失後、寺地を現在の場所に移し、沢庵宗彭(たくあんそうほう)らにより再建が行われました。境内には国指定名勝の枯山水の庭、国指定重要文化財の仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休ごのみの茶室実相庵(じっそうあん)などがあります。 方丈前の枯山水庭園は、仏殿等が建築された江戸時代初期と考えられ、前面に広く白砂を敷き小高くなっている地形を利用して枯滝を組み、そこから小石により表現された枯流れを右手の方向に流しています。上流部に架けた石橋と枯滝とがよく調和し、中央部にある横石の石組も素晴らしく、平庭枯山水形式の庭と石組造形を組み合わせて構成された美しい庭園です。 仏殿は禅宗建築の技法を用いた府下では唯一の仏殿建築で、内部の天井には「八方睨龍(はっぽうにらみりゅう)」が描かれています。山門は二階建てで上層に手すりのついた縁がまわる楼門形式の門で、垂木を扇状に並べる技法は禅宗建築の技法のひとつです。唐門は柱間をつなぐ梁に彫られた模様や、柱の先に突き出た木鼻という彫物などが、仏殿や山門と同様のかたちをしていることから、同じ時期に建てられた建物と考えられています。 また、徳川家康が後藤又兵衛の刃に倒れ、当寺に祀られたとい...
Read more(南宗寺北入口 クチコミからの続き)
ウエルカム的な空気を感じない門の木戸をくぐって境内に入ったものの寺らしき建物が見えず木々の間の石畳や飛び石をウロウロ、三好長慶公の像の前を通り、庭を手入れされてた方に「こんにちは」と挨拶。「こんにちは」と返して頂いたので拒否はされていないと確信。そのまま瓦を積み上げた頑丈な塀に沿って奥に進むとなにやら参拝者を誘う様な小さい看板。更に進むと売店の様な受付有り。番人らしき方と挨拶して会話。熊野街道を歩いていて立ち寄った経緯などを話して南宗寺の事を少々お聞きしました。その方から今の阪高(阪神高速)がかつては堀で南宗寺は堺の南端の角に位置している事、堺の地政が飛鳥に通じる竹ノ内街道の起点となっている事、三国ヶ丘の地名の由来が三国(摂津、河内、和泉)への交通の要所となっている事、まだ難波津は無く大陸への航路の湊になっていた事、それで堺が発展して三好長慶公が父、元長公の菩提を弔う為に町の中心に建立された事、その後豊臣側に堺の町が焼かれ徳川幕府により再興される際にどう言う訳かこの南端に配置された事。頑丈な塀に使われている瓦は焼き払われた建物の瓦を再利用されている事などお聞きしました。「只今、ボランティアが見学ルートを案内しています」と勧めて頂き、先客をガイドされ戻られたばかりのボランティアさんと見学ルートへ。
(伝説の家...
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