住吉大社の御旅所としてが始まりのようですが年代不詳とあり 室町時代にも宿院という地名が見られるものの御旅所を指しているのか寺社の多かった此の地の宿坊に因んでいるのか はっきりと判らないそうですが江戸時代 堺の地誌「堺鑑」(1684年)には「住吉明神毎年六月晦日の御祓御旅所也」と記され 始まりは この頃のようです 神社としては1904年(明治39)神社合祀政策の勅令の影響からか現・南海本線堺駅付近に創建(1816年)された波除住吉神社を1921年(大正10)此の地に遷座 翌年には現・堺市西区平岡町(諸説あり)に創建(706年)された大鳥井瀬神社をお迎えし 社が二つ並んでいましたが 戦中の空襲により焼失1949年(昭和24)再建(伊勢神宮の御用材を兵庫県廣田神社から譲り受けたものを使用しているそうです)1999年(平成11)御本殿修復 明治の頃まで存在した「名越の岡」が崩された土で敷地が かさ上げされており児童公園からの飯匙掘(いいがいぼり)鳥居前 左の燈籠のすぐ左に頭だけ覗く石碑で確認出来ます ※飯匙掘 8月1日に住吉大社より神輿を迎え夏越の祓「飯匙掘祓神事」(荒和:あらにご大祓神事)が行われる所 彦火火出見尊が豊玉姫を迎え 姫の父(海神)から潮満珠 潮干珠を授かり のち潮干珠を埋めたのが飯匙掘で水の溜まらない掘となったそうです 潮満珠は住吉大社摂社大海神社 境内の「玉の井」に沈められたと云われています
かつては東西84間 南北60間あった広大な神域…と言われてもピンと来ないのでmに換算すると約153m×約109m 現状の区画にザッと照らし合わせたら頓宮前の交差点(宿院町東)からチンチン電車の走る交差点(宿院)を一辺とし そこから南へ一つ目の信号機🚥をもう一辺とした長方形の敷地(フェニックス通りの面積を含む)となります 此方への神輿渡御は1868年(明治元)神仏分離令により住吉大社神宮寺の廃寺 廃仏毀釈の騒動も起こり途絶える事になり寂しくなった地元の人々は大鳥大社にお願いし1875年(明治8)大鳥大社の神輿渡御が始まります 同じ神仏分離の影響を受けていた大鳥大社が住吉大社より早期に神輿渡御が始められたのは住吉大社の神仏習合の度合いがより深かったとか…一説に当時大阪で疫病が流行り「七道」で引き返していたといいます 今でこそ堺市の七道ですが 大和川の付け替え(1704年)により村は分断 今の大阪側にもあったといいます つまりは大和川を越えずに引き返した事になります1879年(明治12)住吉大社式年遷宮に合わせ復活 大神輿を新調し1881年(明治14)奉納 昭和に入り日中戦争から第二次世界大戦へと拡大1941年(昭和16)を最後に中止...
Read more住吉大社宿院頓宮(しゅくいんとんぐう)。堺市堺区宿院町東。
主祭神: ・住吉大神(底筒男命・中筒男命・表筒男命、息長足姫命) ・大鳥井瀬大神(弟橘媛命)
資料によると、 住吉大社の御旅所として設置され(年代不詳)、住吉の「宿居」から転じて「宿院」と呼ばれるようになったと言われる。古くから夏の大祓日に住吉大社から神輿を迎え、境内西側にある飯匙堀で「荒和大祓神事」が行われてきた。
明治以降は大鳥大社からも神輿の渡御が行われるようになり、国境の町「堺」を象徴する、摂津国和泉国両一宮の頓宮となった。現在は、7月31日に大鳥大社から、8月1日に住吉大社から神輿の渡御が行われている。
神社としては、大正期に境内へ遷座された「波除住吉神社」と「大鳥井瀬神社」の2社がある。堺大空襲による焼失以前は2社殿が並んでいたが、以降は一社殿にて合わせ祀られている。 年代不詳、住吉大社の御旅所となる。 1875年(明治8年)、大鳥大社の御旅所となる。 1921年(大正10年)、波除住吉神社を宿院頓宮境内へ遷座。 1922年(大正11年)、大鳥井瀬神社を宿院頓宮境...
Read more住吉大社御祭神の住吉大神・神功皇后と大鳥大社御祭神の日本武尊・大鳥連祖神を祀っています。境内に、 飯匙堀という堀があります。 この堀は、 「潮千珠」を埋めた所で、どんなに雨が降っても水が溜まらないという伝説があります。『堺鑑』に「此の地は住吉明神毎年六月晦日の御祓御旅所也」とあり、現在では7月31日に大鳥大社から、8月1日には住吉 大社から、神輿を迎えて祭礼が行われます。 住吉大社の神輿 が渡る8月1日、 飯匙堀では、摂津・河内・和泉三国の大祭として知られた有名な「荒和大祓神事」が執り行われます。堺の夏の風物詩「大魚夜市」 は、7月31日に漁師達が神前に 数々の鮮魚を献じて、...
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