旧和歌山県庁跡地。和歌山市西汀丁27
和歌山市民にとって忘れられぬ日である昭和20年7月9日。フィリッピン・テニアン島を飛び立った「超空の要塞」B-29およそ250機による無差別爆撃(焼夷弾800.3トン)により発生した火災旋風が、ここ汀公園(当時は空き地だった元県庁跡)に避難していた748人の一般市民をのみ込みました。
この日の空襲で発生した火災旋風についての著述があります。「突然、すーっと涼しい風が吹いた。『気持ちいいな』と思った瞬間、周辺の家が火を吹き、高さ6000㍍に及ぶ火の突風が襲った。炎の竜巻のように渦を巻き、トタンや屋根瓦、石、人をも巻き上げた。『目も開けられず、身体を焼きつける火の粉をはたくのに必死だった。隣にいたおっちゃんが『がんばれよぉー』と声をかけてくれたことだけ耳に残っている』」以上引用。
東京大空襲では発生した火災旋風が墨田川に沿って発生し、橋や対岸、川の中に避難していた多くの被災民を飲み込み上空へと巻き上げた。和歌山大空襲でも上記のような目撃証言により発生が確認されている。
都市への無差別爆撃に付いて近年の研究や証言では、 ドイツ国内への連合軍戦略爆撃が、搭乗員損害(1万人以上が戦死)に比して戦争終結への効果を上げていなかったとされる。つまり都市精密爆撃では総力戦の意思を打ち砕くに至らないのだ。米空軍を批判する声が米陸海軍の中からさえ上がっていた。また、最新型爆撃機であるB-29の開発には原爆開発以上の予算が既に使われており、戦争終結という大きな成果を上げられぬ空軍はその地位低下を非常に懸念した。唯一の挽回策である日本本土への都市無差別爆撃へとその戦術を大きく転換していったことが明らかになっている。
それゆえに、空襲被害の中でも和歌山市民から特に悲惨な犠牲者を出したことを忘れぬため、和歌山市がここ汀公園を整備したのだ。
2022-3-6加筆 以下「」より引用
「最進テクノロジーの集合体であったことがうかがえるB-29爆撃機の製造費は、当時でも63万ドルに達するもので、同じ4発重爆撃機であるB-17「フライングフォートレス」の製造費のおよそ3.5倍にもなりました。
それほど高価であったB-29ですが、損失は実に485機(戦死3041名)にもおよんでいます。これは太平洋戦争終結までに生産された同機約2500機のうち、実に20%近くを占める数字です。この数は事故で失われた機数を除いても、旧日本陸海軍機の迎撃や、高射砲射撃による防空体制が決して無力ではなかったといえるでしょう。」以上記事「東京湾のB-29残骸に見る隠れた先進性 いかに技術のカタマリだったか」より引用。
今日のウクライナ民衆の様に、有とあらゆる抵抗を、必死必殺の防空戦を戦ったにも関わらず、犠牲と破壊はここ和歌山市でも。
「レイテ島の土はその声を聞こうとする者には聞こえる声で、語り続けているのである」(大岡昇平「レイテ戦記」)と。その災禍をやがて思い起こす日が和歌山市民に来るまで汀公園もまた語り続けているだろう。
※この日の空襲で国宝和歌山城消失。
死者 - 1,208人、重傷者 - 1,560人、軽傷者 - 3,000人、行方不明者 - 216人、被災者 - 113,548人、焼失家屋 -...
Read more和歌山城の北西方向(西汀丁交差点北西角)にあります。 江戸時代には紀州藩重臣・朝比奈惣左衛門の屋敷があり、南側道路沿いに史跡解説標が設けられています。
昭和13年(1938年)に現在地に移転するまでは和歌山県庁舎(2代目)があった場所でもあり、昭和20年(1945年)7月の和歌山大空襲では、県庁移転後空き地となっていた当地に大勢の市民が逃げ込み、火災旋風のために748名の死者を出しており、戦災殉難者供養碑が建立されています。
敷地東側にはかつて和歌山県経済センターがありましたが、地下駐車場に幽霊が出るという噂がまことしやかに囁かれていました。 動センターが解体されて久しく、現在は遮るもののないすっきりとした空間が広がっていますが、それでも異質な空気を感じます(特...
Read moreだだっ広い公園です。ほんの少しの遊具があります。他の近所の公園はトイレが綺麗に建て直されていますが、ここだけは頑なに立て直しません。戦没者を祀る石碑があるためなのか、たまに草刈りが行われるものも、それ以上なにかするつもりもなさそうです。倒れそうな南国の木が高々と立っていますが、大丈夫なのでしょうか。 夏は蚊がものすごい勢いで襲ってきます。ご注意ください。 心霊スポットのようで、数々の噂を聞きますが、私の家族は何度も訪れていますが、何も起きておりません。 心霊などと言わず、亡くなられた方々が平和な私たちも見守る公園...
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