いつでも、何度訪れても、しっとりと落ち着いた雰囲気を味わえるお寺さんです。鎌倉駅から10分足らずで来れるのに、駅周辺の喧騒が嘘のように静かな場所です。ここは比企ガ谷の谷戸の奥、祇園山の山裾で周囲は静けさと深い緑に包まれています。(このお寺さんの奥の祖師堂脇の階段の途中から祇園山ハイキングコースに抜ける道があります。祇園山は標高60メートルほどの低山ですが展望台からの眺めはとても良いので、時間があったらぜひ歩いて下さい。道標が整備されていますから迷う心配はありません。ただ低山でも足元は滑りやすい山道ですから、革靴やハイヒールでは無理、スニーカーが便利です。展望台から少し戻って北に向かえば鎌倉幕府終焉の地「北条高時腹切りやぐら」へ、展望台から南に向かえば鎌倉最古の厄除け神社「八雲神社」に出られます。) この妙本寺さんはとてもオープンなお寺さんで誰でも境内を自由に参拝させて頂けるのは有難いです。10年ほど前に訪れた時も様子は現在と殆ど変わっていませんでした。何か悠久の時間の流れを感じさせてくれる場所だと思います。 長興山妙本寺は鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)建立で身延山久遠寺、池上本門寺と並ぶ日蓮宗最古のお寺です。2月の梅、4月の桜と艶やかなカイドウ、清楚なシャガ、5月の新緑、6月のアジサイ、11月の楓や銀杏の紅葉と四季を通じて美しい草木が庭を彩ります。鎌倉駅東口から郵便局脇を東に入り滑川を夷堂橋で越えればすぐに総門です。門右手に「比企能員(ひき よしかず)邸址」と言う大正12年に鎌倉町青年団が建立した大きな石碑、左手の掲示板には「さくらはおもしろき物木の中よりさきいず」と日蓮聖人さまの言葉が掲げてあります。そして「蛇苦止大明神五月大祭」の立看板があり「除災、得幸と心願成就の祈祷を希望する方は予め電話して下さい」と書かれています。総門を抜けると境内は広く、入ってすぐ右側に八角形の屋根を持つ仏閣のようなユニークな外観の比企谷幼稚園、先に進み左手の方丈門をくぐると寺務所から三宝尊を安置する本堂に進みます。本堂を参拝し、さらに奥に進むと鮮やかな彩色の施された二天門(多聞天と持国天を安置)があり、くぐれば左手に永縁廟、その奥に巨大な日蓮聖人さまの銅像が優しいお顔で迎えてくれます。銅像を参拝して、一番奥を望めば祖師堂が祇園山の山懐に抱かれるようにして優雅な姿を見せています。ここは周囲の緑も濃く、静かなので参拝を終えた方々が回廊に座ってゆったりとした時間を味わっていました。祖師堂の周囲には比企一族の墓、一幡之君袖塚等この寺の歴史を物語る遺跡が並んでいます。この寺の創建は、鎌倉時代初期の建仁3年(1203年)9月に起こった鎌倉幕府内部の権力闘争と政変(比企の乱)が深く関わっています。比企ガ谷は比企一族が住む場所でした。比企氏は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて武蔵国比企郡(現在の埼玉県比企郡と東松山市)を領した豪族で、比企尼が源頼朝の乳母を務めたため、比企氏は頼朝の篤い信任を受けます。比企尼の養子で比企氏の家督を継いだ比企能員(ひき よしかず)は、源頼朝の嫡男源頼家の乳母父となり、また能員の娘若狭局は頼家の側室となって嫡男一幡(いちまん)を産んだため、比企氏は将軍家の外戚として権勢を強めたのです。この事態に危機感を募らせたのが頼家の母の北条政子と政子の父北条時政です。北条家は将軍の代替わりにより将軍外戚としての地位を失い、その地位を比企氏に取って代わられてしまったのですから。そこで北条氏側は策略をめぐらします。まず比企能員を呼び出して謀殺してしまいます。一族の惣領が殺されたことを知った比企一族は比企ガ谷に立て籠もります。するとこれは謀反であるとして北条政子が比企討伐の命を下し、北条氏を主とする幕府の軍勢が直ちに攻撃を開始します。惣領を失った比企一族は善戦するも衆寡敵せず全滅してしまいます。二代将軍頼家の嫡子一幡とその母親の若狭局も死んでしまいます。ただ、当時2歳だった比企能員の末子比企能本(ひき...
Read more全体の見どころ(寺院の雰囲気.境内の全体.史跡.四季.拝観注意事項 等) 悲劇の一族の菩提を弔う日蓮宗最古の寺院。 この地は、比企ガ谷と呼ばれ比企能員(ひきよしかず)(?~1203)(鎌倉幕府初期の御家人)の館があり、頼朝の旗揚げ以来、側近として活躍、数度の合戦で功を立てた。 ・比企能員の養母は源頼朝の乳母・比企尼。 ・比企能員の妻は、二代将軍・頼家の乳母で、その娘の若狭局は頼家の妻になって、子の一幡を生んだ。 文治2年(1186)6月16日と翌文治3年(1187)9月9日、頼朝・政子夫妻も訪れている。 建久元年(1190)正月3日、頼朝が年明け最初の外出の御行初めに選んでいる。 これは、比企能員が比企局の娘婿であったからである。 頼朝にとって比企局は、実の母にも劣らぬ大恩ある女性であった。
平治の乱の敗戦後、頼朝が伊豆国蛭ケ小島に配流されると、夫と共に頼朝のあとを追うようにして、所領の武蔵国比企郡に下り、それから以降の二十年間、毎月一度一回も欠かさず、配所の頼朝に食料や衣類などを送り続けた。 保元3年(1158)3月1日に実の母を失った頼朝には、比企こそが第二の母だったのである。
・境内は、つねに樹木がうっそうと茂っていて夏は涼しく、比企一族の菩提を弔うための物がたくさんある厳粛な場所です。季節の花々は、滅ぼされた人々を優しく慰めているようにも感じられ、往事の歴史を偲ぶ事ができます。
見どころのポイント(総門・山門・参道・仏殿 等) 総門 現在の総門は、1923年(大正12年)に関東大震災によって倒壊した山門を1925年(大正14年)に再興したものです。総門前に設置された石塔は門よりも歴史が古く、元は境内の祖師堂前にあったものを1785年に移築しました。石塔には、ここが総門最初の寺院であることや徳川将軍家から紫衣着用の許しを得られたということがかかれています。寺院の格式の高さを表わす物です。
二天門 朱色が美しい。
祖師堂 日蓮上人を祀ったお堂。
比企一族供養塔 祖師堂横に、比企の乱でなくなった比企一族の供養塔。
一幡之君袖塚(いちまんのきみそでづか) 一幡(源頼朝の長男・源頼家の嫡男)は、源頼家と若狭局の間にできた子どもです。北条氏に攻められた時、わずか6歳で亡くなりました。
讃岐局蛇苦止霊之墓 比企一族の供養塔の右手にある苔むした石段を上ると、 大きないちょうの木の根元に讃岐局(若狭局)の供養塔があります。
竹御所の墓 祖師堂左側の石段上り口傍に「万葉集研究遺蹟」の碑が建っています。 石段を上ると、途中、右手に祇園山ハイキングコースへ至る登山道があります。 上りきると、妙本寺の墓地が広がっています。 その奥一段高い所に自然石の竹の御所の墓があります。 竹の御所は、父を将軍義家、母を若狭局の娘として(母は木曽義仲の娘という説もあります)、建仁2年(1202年)に生まれた。比企氏滅亡の前年である。 比企氏滅亡の後は、祖母の北条政子に育てられらしい。 その政子が嘉禄元年(1225年)7月11日に死去し、亡父頼家の由緒の地だということで、この地に御所が建てられることになったのだろう。 嘉禄元年12月10日、新築の御殿に竹の御所が入御した。 生まれた翌年に父を失い、かばい育ててくれた祖母政子亡き今、まったく天涯孤独となった。執権北条泰時が御殿を建ててくれただけでも有り難いことだった。 健保4年(1216)、14歳になったとき3代将軍実朝の養女となりました。 竹の御所の生涯で転機が訪れたのは、嘉禄2年(1225年)12月9日であった。 三代将軍実朝が公暁(くぎょう)に暗殺されると、京都から4代将軍として下ってきた九条頼経と結婚したのである。 竹の御所が28歳、頼経が13歳、政略結婚であった。 その4年後の文暦元年(1234)に竹の御所は男児を死産、自身も亡くなりました。 竹の御所は、短い34年の波乱な生涯を閉じました。 合掌
蛇苦止堂 蛇苦止堂 比企の乱で井戸(一説に池)に飛び込んで自害したという比企能員の娘で2代鎌倉幕府将軍源頼家の妻・若狭局を祀る。
御朱印 妙本寺は、日蓮宗でもあることから御首題です。(御首題帳が必要) アクセス JR横須賀線鎌倉駅から徒歩10分
由来 (創建・開山・歴史・特徴 等) 悲劇から始まる寺院の歴史 妙本寺の歴史は比企一族の悲劇から始まります。
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Read moreMyohonji Temple is located about a 10-minute walk from Kamakura Station, in a quiet, green area away from the main streets. Visitors can enjoy seasonal flowers in a peaceful, less crowded setting, making it a hidden gem among Kamakura’s temples.
The temple is situated in the Hikigayatsu Valley, once home to Hiki Yoshikazu, a retainer of Minamoto no Yoritomo. In 1203, the Hiki clan was destroyed by the Hojo in a power struggle. Hiki’s youngest son, Yoshimoto, survived and became a follower of Nichiren, founding Myohonji Temple in 1260 on his family’s...
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