仙波日枝神社 〒350-0036 埼玉県川越市小仙波町1丁目4-1
「東京都千代田区赤坂にある日枝神社の本社です」という案内板を見て、正面に廻り拝観させていただきました。 丁寧に説明された案内板を読み取れる範囲で文字起こししておきます。
日枝神社本殿付宮殿 一棟 (国指定重要文化財建造物)
日枝神社は、慈覚大師円仁が無量寿寺(中院・喜多院)を中興する際に、近江国坂本(滋賀県大津市)の日吉社(日吉大社)を勧請したといいます。 本殿は朱塗の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)で、銅板葺の屋根に千木(ちぎ)、堅魚木(かつおぎ)を飾ります。三間社としては規模が小さく、架構も簡素です。 身舎(もや)の組物は出三斗(でみつど)ですが、背面中央の柱二本は頭貫(かしらぬき)の上まで延び、組物は大斗肘木(だいとひじき)になっています。中備(なかぞなえ)は置きません。妻飾は虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)であっさりとしています。縁を正面だけにもうけ、側面と背面にはまわさず、正面縁の両端のおさまりは縁板を切り落としただけの中途半端なもので、高欄や脇障子をもうけないため簡易な建築に見えます。庇(ひさし)は切面取の角柱を虹梁型頭貫でつないで両端に木鼻(きばな)を付け、連三斗(つれみつど)・出三斗(でみつど)を組んで中央間だけに中備蟇股(かえるまた)を飾ります。ただし、この蟇股は弘化四年(一八四七)頃、修理工事の折に追加されたものといいます。身舎と庇のつなぎは、両端通りに繋虹梁(つなぎこうりょう)を架け、中の二通りに手挟(たばさみ)を置きます。 本殿の建立年代について、それを明確にする史料はありませんが、構造の主要部分は近世初頭の技法によりながら、装飾意匠の一部に室町時代末期頃の様式をとどめ、また、中央の保守的伝統的な技法によらない地方的な技法も見うけられます。虹梁に絵様(えよう)をほどこさず袖切(そできり)・弓眉(ゆみまゆ)だけとする点、庇木鼻の形状と正円に近い渦の絵様、実肘木(さねひじき)の絵様、手挟のおおまかな刳形(くりかた)、などは室町末期の様式です。また、正面の縁のおさまり、大棟上に飾棟木をもうけず直接千木・堅魚木を載せる点、背面の組物だけを大斗肘木とする点、組物の枠肘木と実肘木が同じ断面寸法でかつ背と幅が同一な点、巻斗(まきと)の配置が六支掛(ろくしがけ)の垂木(たるき)配置と関係なく決定されている点、などは地方的技法といえます。とくに枠肘木・実肘木の断面寸法、垂木割にかかわらない巻斗の配置は珍しく、幕府作事方に収斂される中央の木割法とは異なる設計システムが存在したことを推測させます。 喜多院は慶長十七年(一六一二)頃に再興されており、日枝神社本殿もその一環として造営された可能性もありますが、それ以前に地方工匠の手によって建造された可能性も残されています。 昭和二十一年十一月二十九日指定 川越市教育委員会 本殿正面 本殿平面図
仙波鎮守 日枝神社...
Read more日枝神社は、慈覚大師円化が無量寿寺(中院・喜多院)を中興する際に、近江国坂本(滋賀県大津市)の日吉社(日吉大社)を勧請したといいます。 本殿は朱塗の三間社流造で、銅板葺の屋根に千木、堅魚木を飾ります。 三間社としては規模が小さく、架構も簡素です。 身舎の組物は出三斗ですが、背面中央の柱二本は頭貫の上まで延び、組物は大斗肘木になっています。中備は置きません。 妻飾は虹梁大瓶束であっさりとしています。 縁を正面だけにもうけ、側面と背面にはまわさず、正面緑の両端のおさまりは縁板を切り落としただけの中途半端なもので、高欄や脇障子をもうけないため簡易な建築に見えます。 庇は切面取の角柱を虹染型頭費でつないで両端に木鼻を付け、連三斗・出三斗を組んで中央間だけに中備墓股を飾ります。 ただし、この蒙股は弘化四年(一八四七)頃、修理工事の折に追加されたものといいます。 身舎と庇のつなぎは、両端通りに繋虹梁を架け、中の二通りに手挟を置きます。 本殿の建立年代について、それを明確にする史料はありませんが、構造の主要部分は近世初頭の技法によりながら、装飾意匠の一部に室町時代末期頃の様式をとどめ、また、中央の保守的伝統的な技法によらない地方的な技法も見うけられます。 虹梁に絵様をほどこさず袖切・弓眉だけとする点、庇木鼻の形状と正円に近い渦の絵様、実肘木の絵様、手挟のおおまかな刳形、などは室町末期の様式です。 また、正面の縁のおさまり、大棟上に飾棟木をもうけず直接千木・堅魚木を載せる点、背面の組物だけを大斗肘木とする点、組物の枠肘木と実肘木が同じ断面寸法でかつ背と幅が同一な点、巻斗の配置が六支掛の垂木配置と関係なく決定されている点、などは地方的技法といえます。 とくに枠肘木・実肘木の断面寸法、垂木割にかかわらない巻斗の配置は珍しく、幕府作事方に収斂される中央の木割法とは異なる設計システムが存在したことを推測させます。 喜多院は慶長十七年(一六一二)頃に再興されており、日枝神社本殿もその一環として造営された可能性もありますが、それ以前に地方工匠の手によって建造された...
Read more喜多院の山門手前に位置する日枝神社。喜多院への初詣時には、この付近より多くの参拝者による行列ができるため、元々は喜多院の境内社の扱いであるにも関わらず、喜多院と比較して参拝者の数は落ち着いているものと思慮します。
本殿は喜多院の草創時代に、近江日枝神社を勧請して境内に祀られたそうです。
東京都内では赤坂(正確には千代田区永田町)の日枝神社(広い境内に大きな本殿!)が有名ですが、赤坂の日枝神社の成り立ちを紐解くと、文明10(1478)年に、川越城や江戸城を築城したことでも知られる武将、太田道灌が江戸城を築城するにあたり、ここ仙波日枝神社から江戸城内に分祀したことに始まるのだとか。
余談ですが、仙波日枝神社は多宝塔古墳と呼ばれる墳丘の上に建立されたのだそうです。ただしその大部分は紆余曲折を経て掘削されており、鳥居正面を見て左側のこんもりした丘にその面影が残る程...
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