駒札:蓮光寺(れんこうじ) 知恩院を本山とする浄土宗の寺で、「負別如来(おいわけにょらい)」と呼ばれる本尊の阿弥陀如来と地蔵堂に安置される「駒止(こまどめ)地蔵」で知られている。 本堂に祀られる本尊は、鎌倉時代を代表する仏師、快慶の作と伝えられる。その昔、快慶が東国の僧の求めに応じて阿弥陀如来を作った際、あまりの尊い出来映えに自ら護持したいという気持ちを止められず、僧の後を追いかけた。山科の辺りで僧に追いつき懇願すると、僧も大いに感銘し、笈(おい)を開いたところ、仏像が二体に分かれていたという。二人は感涙し、それぞれ一体を背負って東西に分かれたと伝えられる。この本尊はその一体であるといわれ、「負別山(おいわけざん)」という山号もこれにちなんだものである。僧が持ち帰ったもう一体の仏像は「笈別(おいわけ)如来」と称され、仙台市泉区にある阿弥陀堂に安置されている。 駒止地蔵は弘法大使(空海)の作といわれ、もとは六条河原の処刑場に祀られていたと伝えられる。鴨川の氾濫で埋もれていたが、平清盛が乗る駒(馬)が六条河原に差し掛かった時、急に馬が動かなくなり、その場所を掘ってみると、この地蔵が出てきたことからその名が付いたという。 境内には、関ヶ原の合戦や大坂夏の陣で活躍した武将、長曾我部盛親(ちょうそかべもりちか)の墓がある。 京都市 Komafuda: Renkoji Temple
This Jodo sect temple, headquartered in Chion-in, is known for its principal image of Amida Nyorai, also known as Oiwake Nyorai, and the Komadome Jizo, enshrined in the Jizo Hall.
The principal image enshrined in the main hall is said to be the work of Kaikei, a representative Buddhist sculptor of the Kamakura period. Long ago, when Kaikei created Amida Nyorai at the request of a monk from the eastern provinces, he was so moved by the workmanship that he could not help wanting to protect it himself, and he chased after the monk. When he caught up with the monk near Yamashina and pleaded with him, the monk was so impressed that he opened his backpack and found the statue had split into two. The two men were moved to tears, and each carried one of the statue on their backs as they separated into the east and west. The principal image is said to be one of the two statues, and the mountain's name, Oiwakezan, is derived from this. The other Buddha statue that the monk brought back is called "Oiwake Nyorai" and is enshrined in the Amida Hall in Izumi Ward, Sendai City. Komadome Jizo is said to have been made by Kobo Daishi (Kukai) and was originally enshrined at the execution grounds at Rokujo-gawara. It was buried when the Kamo River flooded, but when Taira no Kiyomori's horse approached Rokujo-gawara, the horse suddenly stopped moving. When the spot was dug up, this Jizo statue emerged, hence the name. Within the temple grounds is the grave of Chosokabe Morichika, a military commander who was active in the Battle of Sekigahara and the Summer Siege of...
Read more京都市下京区富小路通六条上る本塩竃町534にある、お寺で、平安時代から江戸時代にかけて、政治犯の処刑場があり、三条河原から六条河原で行われていました。蓮光寺は、六条河原の刑場にあった駒止地蔵尊があります。
浄土宗のお寺です。1492年(明応元)真盛上人が高野山の苅萱堂に模して新町に創建しました。当時は天台宗で萱堂であったそうです。その後光順上人が浄土宗に改めました。本尊は快慶作と伝える負別阿弥陀如来で地蔵堂には駒止地蔵を祀っています。境内には土佐の長曾我部盛親の墳墓もあります。
住職様のお話しに、長宗我部盛親の父である元親と蓮光寺のときの住職が昵懇だった。長宗我部盛親は関ヶ原の戦いでは西軍につくが、出陣することなく負けてしまう、戦後、寺子屋の先生として、子どもを教育していた。これは、徳川家が子どもを通して、盛親を監視していたのだろう。
大阪夏の陣後、六条河原で処刑され、首級は四条で吊るされた。その場所は現在パチンコ屋になっており、屋上に鳥居がある。首級がさらされていることを哀れに思った蓮光寺のときの住職である蓮光上人が京都所司代の板倉勝重に掛け合い、首級を蓮光寺に埋葬した。
盛親の遺品は高知県にもなく、ここにしかない。刀、鐙、鎧が残されている。長宗我部家は人気があり、全国から沢山の人がお参りに来る。
駒止地蔵尊についつは、 この駒止地蔵尊は弘法大師の御作で、もと六条河原の刑場に祀られていたが、鴨川の氾濫で埋もれていた。保元3(1158)年平清盛の乗馬が立ち止まって動こうとしないので、あたりを掘ってみるとこの地蔵尊がでてきた。 以来、「駒止地蔵」として信奉されている。盗賊に襲われた篤信者を護り、身代わりになって首を切られたと伝えられ、「首切り地蔵」ので、名もある。 この駒止地蔵尊は六条河原で処刑された多くの人々の末期を看取ってきた。江戸時代より霊験あらたかな名地蔵として信奉されており、京都名地蔵巡り第23番札所にも数えられている。
アクセスは、地下鉄烏丸線「五条」駅下車、徒歩5分 市バス「河...
Read more京区富小路通六条上る本塩竃町のあるのが浄土宗知恩院派の「負別山 蓮光寺(れんこうじ)」になります。 本尊は負別阿弥陀如来(快慶作と伝えられる)
蓮光寺は1492年に真盛上人(しんせい 1443年~1495年 戦国時代の天台宗の僧)開基として下京区新町高辻に草庵を結んだのが始まりである。当初は天台宗であったが1591年、秀吉の命により現在地に移転し蓮光寺と改めた浄土宗となった。
山門には「長曽我部盛親公埋首之地」という石碑があります。 土佐の戦国大名である長曽我部盛親(1575~1615)は関ヶ原の戦い後は京都で隠棲していましたが大坂の陣で豊臣方に付き敗走し,京都八幡(京都府八幡市)付近の橋本の近くの葦の中に潜んでいたところを捕らえられ、伏見に護送された。その後、盛親は京都の大路を引廻され、そして5月15日に京都の六条河原で斬られた。 蓮光寺の僧が板倉勝重に請うて遺骸を同寺に葬り、源翁宗本と諡名したので境内にはお墓があります。
洛陽四十八願地蔵の第45番札所として駒止地蔵が安置されています。 駒止地蔵は弘法大師の作と言われています。本来、六条河原の刑場で祀られていましたが鴨川の氾濫で埋もれていました。 平清盛の乗馬がちょうどそこに止まり、掘ってみると地蔵尊がでてきた。以来駒止地蔵と呼ばれる。 この駒止地蔵尊は、盗賊に襲われた篤信者を護り、身代わりになって首を切られたと伝えられ、「首切り地蔵」の名もある。
2025年10月18日 少し天気が悪く、時々小雨の降る中で行われた「京都浄土宗寺院特別公開」で「負別山 蓮光寺」も参加寺院でしたので訪問。ご本尊の「負別阿弥陀如来」や「駒止地蔵」や「長曽我部盛親公」のお墓を拝見・参拝の機会が出来たことに感謝です。 前回の訪問時は、わからなかったが蓮光寺の本堂右手には、「白玉稲荷大明神」のお社と「白信 白峰白吉 白繁 白光 白一 白姫 白春 白雲 白竹...
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