The temple is located in the east of Kyoto and is a hidden gem that offers a serene escape from the bustling city.
The highlight of my visit was the breathtaking view of the vibrant maple leaves in autumn. The temple grounds are surrounded by a beautiful tunnel of red and orange foliage, creating a picturesque scene that is perfect for photography. The contrast between the autumn leaves and the dark-colored temple buildings is simply stunning. Overall, Shinsho Gokurakuji Temple is a must-visit destination for anyone traveling to Kyoto during the fall season. The combination of historical significance, spiritual tranquility, and natural beauty makes it a truly...
Read more真如堂 正しくは真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)という天台宗の寺である。 平安中期の永観二年(984)、比叡山延暦寺の僧、戒算上人(かいさんしょうにん)が延暦寺の常行堂にあった阿弥陀如来像を東三条院藤原詮子(一条天皇の母、藤原道長の姉)の離宮に移し、安置したのが始まりとされる。当初、この場所の東北に位置する元真如堂(接骨堂)の地にあったが、応仁の乱で荒廃した後、各地を転々とし、元禄六年(1693)に現在地への再建が開始された。 本堂(重要文化財)は江戸時代の享保二年(1717)の上棟で、京都市内の天台宗の寺院の本堂として最大規模を誇り、内部には、本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)が祀られている。本尊は「うなずきの弥陀」とも呼ばれ、毎年十一月十五日にのみ開帳される。 寺宝として、仏師運慶の発願によって書写された法華経六巻(国宝)をはじめ、応仁の乱などを描いた室町時代の真如堂縁起(重要文化財)、毎年三月に公開される大涅槃図など、多数を蔵する。 秋には、東山を借景にした「涅槃の庭」や三重塔、梵鐘に色づいたもみじが映え、紅葉の名所としても有名である。 京都市 Shinnyodo The correct name is Shinsho Gokurakuji, a temple of the Tendai sect. In the second year of Eikan (984) in the middle of the Heian period, Kaisan Shonin, a monk of Enryaku-ji Temple on Mt. Hiei, removed the statue of Amida Tathagata from the Jogyo-do Hall of Enryaku-ji Temple to Higashi-sanjo-in Fujiwara no Shoko (Fujiwara no Michinaga, mother of Emperor Ichijo). It is said that it began when the shrine was moved to the villa of her older sister, and was placed there. It was originally located on the site of the former Shinnyodo (bone-setting hall) located in the northeast of this place, but after it was devastated by the Onin War, it moved from place to place, and reconstruction at its current location began in 1693. Ta. The main hall (Important Cultural Property) was built in 1717 during the Edo period, and is the largest main hall of a Tendai sect temple in Kyoto City. is enshrined here. The principal image is also called
Nodding Mida,'' and it is opened only on November 15th every year. Temple treasures include the six volumes of the Lotus Sutra (a national treasure) that was copied at the request of the Buddhist sculptor Unkei, the Muromachi period Shinnyodo Engi (an important cultural property) that depicts the Onin War, and the Great Nirvana that is exhibited every March. , store a large number. In autumn, the
Garden of Nirvana'' with Higashiyama in the background, the three-storied pagoda, and the temple bell are covered in colored maple leaves, making it a famous spot for autumn... Read more女人済度の由来や陰陽師・安倍晴明の蘇生伝説、歴史についてご紹介します。
慈覚大師と東三条院
真如堂の始まりに大きく関わった平安期の歴史的人物です。 慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)は、最澄に師事した比叡山の僧侶であり、唐から密教経典を持ち込んだ入唐八家のひとりです。第三世天台座主を務め、天台宗の教えを大成させました。真如堂の御本尊・阿弥陀如来立像は、慈覚大師円仁が苗鹿大明神で見つけた霊木で彫ったもので、衆生済度、特に女人済度の阿弥陀如来とされています。 ある晩、「神楽岡のあたりに小さな桧千本が一晩のうちに生えた場所がある。そここそ仏法有縁の地であり衆生済度の場である」というお告げを受けた比叡山の僧・戒算上人が、この阿弥陀如来立像を比叡山から京へと持ち出して、そのお告げの場所である東三条院の離宮に遷座させました。東三条院(藤原詮子)は、藤原兼家の娘であり藤原道長の姉であり、円融天皇の女御にして一条天皇の母です。とても信心深い女性と伝えられています。その後、真如堂は一条天皇の勅願所となり、多くの人々、特に女性から深い帰依を得ることとなりました。
安倍晴明の蘇生
安倍晴明(あべのせいめい)は平安時代に活躍した陰陽師です。陰陽道とは陰陽五行説に基づくもので、平安貴族の日常生活や国政に大きな影響を与えた信仰的思想です。安倍晴明は、同時期に生きた東三条院に吉凶を勘申していたかもしれません。真如堂御本尊の脇侍の不動明王は、安倍晴明の念持仏(自邸にまつっていた仏像)といわれています。 「真如堂縁起」には、不慮の死に遭った安倍晴明が閻魔大王の前に引き出された時、この不動明王がその場に飛来して命乞いをする様子が記されています。閻魔大王は「是は我が秘印にして、現世には横死の難を救い、未来にはこの印鑑を持ち来る亡者、決定往生の秘印なり。是は汝一人のために非ず。娑婆へ持ち帰り、この印鑑を施し、あまねく諸人を導くべし」と言って、「五行之印(決定往生の秘印)」を授けました。その後85歳まで生きた安倍晴明は、この秘印を多くの人々に施したと伝えられています。 7月25日の宝物虫払会では、この蘇生伝説に基づく五行之印による無病息災・長寿の加持が行われています。また、それ以外の日でも印紋は本堂で授与しており、「復活」の護符として、また、極楽往生を願う方が求めていかれます。
春日局の父・斎藤利三
斎藤利三(さいとうとしみつ)は、明智光秀の重臣で、徳川家光の乳母である春日局の父親です。本能寺の変で秀吉軍に敗れた斎藤利光は処刑され、その首は斎藤利三と親交があった絵師・海北友松らによって真如堂に葬られました。 本堂前南側の囲いの中に植わっている「たてかわ桜」は、春日局が、父の菩提を弔うために植えたといわれています。ソメイヨシノの木の皮が横向きなのに対して、樹皮に縦向きの皮目があることから、「縦皮桜」と呼ばれるエドヒガンという品種です。1959年の伊勢湾台風で折れてしまいましたが、復活を遂げて清楚な花を咲かせるようになりました。
京都映画誕生の碑
本堂のそばに「京都映画誕生の碑」と刻まれた石碑があります。2008年、「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会の呼びかけにより、吉永小百合さんや田村正和さんなどの映画関係者を中心とした81人の寄付で建立されました。 この四角い形は、「映画の父」と呼ばれるリュミエール兄弟が発明した複合映写機(シネマトグラフ)を模しています。京都生まれで「日本映画の父」として日本映画の創世記を築いた牧野省三が、1908年にシネマトグラフを用いて撮影した初の劇映画『本能寺合戦』の舞台となったのが真如堂の境内でした。この地で、日本の映...
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