明治34(1901)年12月10日、田中正造は足尾鉱毒に苦しむ人々の窮状について明治天皇に直訴した。この事件は「狂人がよろめいた」こととして不問にされ、死を賭けた直訴状は明治天皇に届くことはなかった。大正天皇・昭和天皇の眼にもふれることもなかった。
平成26(2014)年5月12日、天皇・皇后両陛下は佐野市郷土博物館をご訪問になり、直訴状を長い間じっとごらんになったという。関係者によれば、数か月前に直訴状を展示しておくようにとのひそかな厳命があったので、普段の写しではなく原本に替えてあった。直訴事件から百年以上たって、ようやく田中正造の直訴状が天皇の眼に達したわけだ。
前年10月27日、両陛下は水俣を訪れたさい、今なお苦しんでいる水俣病患者にお会いになった。そのとき天皇は「今後の日本が、自分が正しくあることができる社会になっていく、そうなればよいと思っています」とお話になった。
田中正造が「私」を投げうって郷土の人々すなわち「公」のために尽くしたのは「自分が正しくあ」ろうとしたのだ。天皇はそうお考えになったから、百年たったとはいえ、正造はじめ渡良瀬流域の庶民の絶望的な希求をいま受け止めてあげなければいけないとお思いになったのではないだろうか。
世をいとひそしりをいみて何かせん身をすててこそたのしかりけれ
正造は晩年の心境をそう詠んだ。その詠は碑に深く刻まれて...
Read more『佐野市郷土博物館』に行ってきました。
佐野市を中心とする地域の考古・歴史・民俗等に関する資料を展示する博物館ですが、特筆すべきは、佐野市出身で足尾鉱毒事件に生涯を捧げた政治家・田中正造の関係資料約1万点を収蔵し、『田中正造展示室』を設け、田中正造が政治家を志してからの足跡を関係資料で展示している点てす。
田中正造は雲龍寺から少し離れた庭田清四郎家で亡くなりましたが、その際枕辺に残された遺品は菅笠と合切袋(がっさいぶくろ・信玄袋)で、袋の中には河川調査の草稿と新約聖書各1冊、鼻紙数枚、採集した川海苔かわのり、小石3個、帝国憲法とマタイ伝の合本、日記3冊が収められていました。それらの遺品の実物も展示されています。
田中正造に関する動画を視聴できるコーナーもあります。2本の短い動画ですが内容がよくまとめられていて必見だと思います。
田中正造展示室内の展示物は撮影禁止です。展示物の詳細は「田中正造展示室、佐野市」で検索していただくか、以下のリンクから確認できます。
https://www.city.sano.lg.jp/sp/kyodohakubutsukan/tenji...
Read more地元の聖人、田中正造の展示が質・量共に素晴らしいです。 小学校の国語の教科書か道徳の教本だったかな? 。田中正造の信念の生涯について学んだ記憶があります。そのせいか、展示されている年表などを見ても「ああ、そうそうこんな話あったよね~!」という感じで、昔の知人に久しぶりに会ったような妙な懐かしさがありました。(笑) そして物語は確か「死去した際には、民衆救済のために全財産を使い果たした彼の遺品は粗末なズダ袋が一つだけであり、中を確認すると聖書と鼻紙と小石3つが入っていただけだった。」という印象的な文章で締めくくられていたと思います。 子ども心に、よくわからなかったのは「小石って??何のため持ち歩いていたの?」ということでした。氏の性格から考えて、投石などの攻撃用の装備ではない(笑)とは思いましたが、私には長らく謎だったのです。 素晴らしいことに、遺品のズダ袋も小石も展示してありました。小さくて丸い、スベスベの小石で、これを眺めたり握ったりする事が、氏の癒やしになっていたのだと思われます。謎が解明され実に...
Read more