江戸時代、徳川将軍家の居住し政務を行った場所。本丸御殿の右側と中央が政務を行い、天守閣に近い方つまり左側が大奥とされています。
将軍を補佐する大老、老中、若年寄は月番制即ち月替わりで当直勤務があり、それ以外にも将軍の近衛隊に奏者番(そうじゃばんと読む。1万~2万石までの普代大名から選抜・ほとんどが寺社仏閣を取り仕切る寺社奉行職と兼務)、大番頭(おおばんがしら)、大目付、目付、町奉行、勘定奉行、普請奉行の他各奉行、小姓がいました。 後は番方と言って、本丸を警護、警備する侍達が3交代制で当直に当たっていました。1日将軍以外に本丸を出入りする男性の数は5000人。大奥の女性は1000人で計6000人は出入りしていたと言われています。
※徳川家康公 生誕は天文11年(1543)1月31日 幼名竹千代→元服松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康
身長155センチ〜160センチ
官位…従一位征夷大将軍、右大臣、太政大臣、源氏長者、淳和院・奨学院両院別当、死去後贈正一位
・生涯 三河国(現在の愛知県)の国人土豪、松平氏の安祥松平氏の第5代当主。三河国岡崎城主松平広忠の嫡男として生まれる。3歳の頃に生母の於大の方の父、水野忠政が尾張国の織田家と同盟を結ぶ。松平家は代々駿河国(現在の静岡県)今川氏との同盟関係のため、父広忠と母於大の方は離縁し、わずか3歳で母と生き別れになる。6歳の時に今川氏の人質として岡崎から駿河国に出発。しかしその道中で突如、広忠の後妻の父の戸田康光が織田家側に寝返り、竹千代は尾張国の織田家へ誘拐されてしまう。それでも松平家は今川氏との同盟を守り、今川氏も織田家の織田信広(信長公の父信秀の庶長子。庶長子とは正室以外の側室から出来た子供で正室の子供より先に生まれたので長子とつく)との人質交換で無事駿河国へ行く。
14歳で元服し次郎三郎元信と改名し、今川義元の姪に当たる関口親永の娘、築山殿と結婚する。弘治4年(1558年)祖父松平清康の康の字を貰い元康と改名する。 初陣は、三河国で国衆による大規模な反乱「三河そう劇」が起こり、寺部城の戦いにおいて城下に火を放ち、広瀬、挙母、梅坪、伊保(現在の愛知県豊田市付近)を攻め、今川氏の領地を取り戻す戦功を挙げ、義元から腰刀を褒美に貰う。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いが勃発。大高城の城中に兵糧の不備があると義元に訴え、織田軍包囲網を掻い潜り、無事に兵糧を大高城に届け、さらに鷲津砦と丸根砦を攻め落とす。しかし同日昼に織田信長公が今川義元を僅かな寡兵で討ち取られ、その事を生母於大の方の兄、つまり叔父にあたる水野信元から伝えられ、大高城の物見から主君義元の死を確認すると、松平氏の本拠地岡崎へ向かい今川氏残党がいる岡崎城を避け、菩提寺である大樹寺に入り、期を狙い岡崎城から今川氏残党が撤退したのを確認してから、生地である岡崎城を取り戻す。
そして今川氏から独立する好機と見るや室町幕府第13代将軍の足利義輝に書状を送り独立した領主と認可を受け、今川氏と決別すべく牛久保城を夜襲するも失敗。失敗したもののこれで松平氏は今川氏から独立したものと印象付けには成功した。これは今川氏と同盟関係にあった武田氏、北条氏が関東の長尾景虎(後の上杉謙信公)の対処に援軍を差し向けられないと事前に情報を確認していたからといえる。 そして藤波畷の戦い(ふじなみなわて)で勝利を収め、叔父水野信元の仲介により、織田信長公との同盟を締結「清洲同盟」し今川氏との戦いへ向かう。
永禄7年(1564年)今川義元の子、今川氏真と反家康派の国衆との戦いにて、三河一向一揆を鎮圧し、戸田氏、西郷氏を味方に取り込み、反家康勢力を排除し、永禄9年(1566年)ついに三河国を平定する。そして松平から徳川に名字を改姓し、従五位下三河守になる。永禄11年(1568年)室町幕府第13代将軍足利義輝の弟の足利義昭を伴い織田信長公は京都に上洛。家康公は左京大夫(左京大夫…歴代管領の盟友的存在たる有力守護大名に授けられる官職)になる。
同年、甲斐国(現在の山梨県)武田晴信(信玄)公と同盟を組み曳馬城(現在の浜松城)を攻め落とし、駿河国、遠江国(現在の静岡県)と侵攻し平定。武田晴信(信玄)公と協定をし、大井川を堺に西側遠江国を徳川、東駿河国を武田で領すると協定を結ぶが、武田二十四将の一人秋山虎繁が遠江侵攻をかけ、同盟はあっけなく手切となる。 今川氏真は駿府から掛川に本拠地を移すが、家康公に包囲され、今川氏は滅亡する。
室町幕府第15代将軍足利義昭は、反信長同盟を武田氏、朝倉氏、浅井氏、石山本願寺の信長包囲網を結成する。その折に義昭は家康公にも反織田勢力に加わるように「副将軍」の地位を用意して待つも、家康から拒絶されてしまう。この包囲網で織田軍は動けないまま、武田晴信(信玄)公と本格的な武力衝突になり一言坂の戦い、二俣城の戦い、三方ヶ原の戦いで家康公は大敗し、命辛辛、浜松城に逃げ込み「空城の計」で難を逃れる。その後武田軍は野田城を攻め落としたところで、武田晴信(信玄)公は51歳で死去してしまう。(諸説あるが労咳、癌、脳溢血、真偽不明)
これにより反織田勢力は瓦解、織田信長公や徳川家康公は勢力を回復していく。天正3年(1575年)長篠の戦いにおいて、火縄銃による新しい戦闘方式で織田・徳川連合軍が大勝利を収める。家康公はこの後、光明城、犬居城、二俣城、諏訪原城と攻め落とし、正式に織田家の主力となる。そんな折の天正6年(1578年)越後国(現在の新潟県)の上杉輝虎(謙信)公が死去。上杉家のお家騒動の御館の乱が勃発し、輝虎(謙信)公の養子景勝と景虎の間で激しい内紛が発生。景勝には武田勝頼、北条家からの養子景虎には北条家本隊が合流し、当時武田、北条の同盟「甲相同盟」は破綻。北条氏は家康公と同盟を結び、現在の掛川市付近に横須賀城を築城し武田軍の要衝中の要衝の高天神城を監視します。 この時に別の事件が発生します。なんと織田信長公から、家康公の正室築山殿と嫡男信康に武田家と内通しているという疑惑を持たれます。そのため泣く泣く家康公は築山殿を殺害。信康は切腹させました。
天正9年(1581年)難攻不落だった高天神城を落城させ、武田家二十四将だった、穴山信君(のぶただ・梅雪)、木曾義昌を勝頼から離反させることに成功し、武田勝頼を自害させ武田家を滅亡させました。この戦功により駿河国を与えられ、家康公は莫大な私財を投じて駿河国、遠江国、三河国に宿場町と街道を整備します。
天正10年(1582年)堺に遊覧の最中に明智光秀による本能寺の変が起こり、織田信長公は光秀に討たれてしまいます。家康公は信長公の後を追うべく本能寺に向かおうとしますが本多忠勝の説得され、服部半蔵正成や伊賀の忍、茶屋四郎次郎と共に「伊賀越え」を敢行し、なんとか本拠地の三河国に戻りました。また堺に帯同していた穴山信君は伊賀越えを拒否し別ルートで自分の領地に帰還最中に光秀軍に発見され戦死しました。
織田信長公死去により、甲斐国、信濃国(現在の長野県)、上野国(現在の群馬県)に領主がいない空白地が出来、旧武田領一揆や天正壬午の乱等が勃発。その空白地獲得のため徳川軍と北条軍で全面戦争となりましたが、戦の途中で上田領主真田昌幸が徳川側に付いたことにより、真田家自慢の執拗なゲリラ戦法により北条軍は撤退し和睦による戦争終結で、上野国は北条家。信濃国、甲斐国は徳川家の所領となり、徳川家は三河国、遠江国、駿河国、甲斐国、信濃国の5カ国を治める大大名となりました。
織田信長公の死後、次代の天下人となったのは羽柴秀吉公で、本能寺の変の急報を聞きつけると中国大返しで、明智光秀を討伐し、さらに賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討伐しました。そして小牧・長久手の戦いにて秀吉公は上杉、毛利、佐竹、紀州国(現在の和歌山県)の雑賀衆、長宗我部、佐々成政を味方につけると徳川軍と激突し、和睦により服属。次男結城秀康を秀吉公側に差し出した。 これにより秀吉公は朝廷より豊臣姓を賜り、関白となります。 この後、家康公は領土拡大路線として上田を攻めましたが、真田昌幸の老獪な戦術により第1次上田合戦に敗北。秀吉公の裏切り工作により家康公の最側近の石川数正が出奔。さらに秀吉公は自らの実妹の朝日姫を家康公の正室として差し出し家康公はついに秀吉公の臣下に降ってしまいます。
続きは江戸城天主台で。
アクセス 天守閣の方の...
Read moreThe Site of Edo Castle Honmaru (Main Hall) offers a fascinating glimpse into Japan's Edo period history. While the original Honmaru Palace was destroyed by fire and no longer stands, the stone foundations and surrounding moats and walls remain, providing a sense of the scale and grandeur of the former shogun's residence. The area is now a peaceful park-like space, offering a tranquil escape within the bustling city. Informative signs and displays provide historical context, helping visitors imagine what the palace once looked like. While there isn't much to see in terms of actual buildings, the site's historical significance and peaceful atmosphere make it a worthwhile visit for those interested in Japanese history and...
Read more戦国時代の長禄元年(1457年)、相模国守護扇谷、上杉氏の重臣、太田道灌が江戸に城を築きました。以後、江戸は関東における政治的拠点として発展します。江戸時代に入り、城は戦いの場から政治の舞台、権力の象徴となり、取り分け江戸城は、徳川将軍家の城として、また当時の大都市、江戸のシンボルとして、比類なき地位を築きました。屏風絵、絵巻物、金箔瓦、建築図面、古文書、大型模型などを参照にして江戸城の姿を多角的に検証するとともに、焼失した「幻の天守閣」を述べます。
徳川幕府3代将軍・家光には、厚い信頼を寄せた異母弟がいた。会津初代藩主、保科正之です。正之は土津公と領民に慕われ、若松城(鶴ヶ城)内の「土津神社」には今でも多くの参拝者が訪れます。保科正之は、徳川2代将軍・秀忠の子供です。しかし、秀忠の正室・お江与の嫉妬を避ける為に、その存在は隠され武田信玄の娘である見性院に預けられ、7歳で高遠藩主保科氏の養子となります。高遠氏の重臣であった保科氏は主家の没落後、武田信玄、武田勝頼、徳川家康に仕えていたが、慶長5(1600)年に高遠城を与えられて帰還、武田氏家臣の娘を母に、真田昌幸の娘を妻に持つ正光公が初代藩主となったのです。幸松丸が、後の正之はこの正光公の養子となったのです。寛永8(1631)年、21歳の正之公は高遠藩主となります。寛永11(1634)年に家光上洛に伴って異例の侍従昇進を果たした頃には、正之の出自も諸大名の知るところとなっておりました。その5年後の寛永13(1636)年には山形、次いで会津へ移るが、将軍家光からの信頼は常に厚く、幼い4代将軍家綱の補佐を遺言で命じられたほどでした。
また、江戸初期に玉川上水の建設を建議するなどその手腕を存分に発揮し、葵紋と松平姓を与えられております。正之自身は憚って使用しなかった訳は、その子供の代からは松平氏を名乗り、徳川一族としての地位を築いていく考えでした。この保科正之が、現在見られる江戸城天守閣の姿と深く関わっております。
明暦3(1657)年、江戸の市街地を焼き尽くす大火事が起きたました。明暦の大火です。恋わずらいで若くして亡くなった娘の遺品が出火原因とする伝承から「振袖火事」とも呼ばれる、この大火事は、江戸三大大火の中でも最大級の被害規模とされ、明治以前で我が国最大の火災でした。大火は江戸城を含む江戸の町の大半を焼き尽くし、2日後にようやく鎮火しましたが、犠牲者は3万人とも10万人とも言われます。大火の後、江戸城天守閣再建の声は当然、幕府内で起こりました。天守台のみは規模を縮小して速やかに再建されましたが、それ以上の建設は行わなかったのです。
将軍補佐の地位にあった正之が強固に反対したのでした。この状況にあって最優先されるべきは何かと熟慮したのです。 正之の提言により、「江戸城下の再建・復興・福祉に多くに資金が投入し、役割を終えた江戸城天守閣は天守台のみと」なったのです。
泰平の世において実用的意味の薄い天守閣に代わり、延焼を防ぐ為の施設として広小路を上野に、芝及び浅草には新堀、神田川を拡張、両国橋の橋梁を架橋するなど、都市整備に財源が注ぎ込まれたのです。会津初代藩主・保科正之公が今なお名君の誉れ高い理由の一端がここにも垣間見られます。
地方の各省庁官僚、地方より引っ越した都内の人達は変わっても歴史と人物は地域の資源ですね。首都圏直下型地震で関東埋没(元々は砂上の海の底が埋没谷が沢山)する事は否定出来ません。元々は埋め立て以前は海の底です。 行き違い等々の切はご容赦下さい...
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